藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 #10 19, 17
NeoL / 2019年11月8日 6時0分
また最初からやり直しかあ。
35で離婚した民子は、1LDKの新居で荷ほどきの手を止めて、か細いため息をついた。自分から望んだ新しい生活であったが、いざひとりになってみると、それが正しい選択だったのはずなのに、不安が心の底に静かに横たわっているのを感じた。
あの結婚生活を続けても、行き止まり。
何度も何度も思い描き、起こり得る未来を確認してから踏み出した一歩だった。だから、その正しさへの確信は揺るがない。だが、民子は思うのだった。満ちているはずの希望は少なくて、やるせなさが心と体にまとわりついているのは、なぜだろうと。
ユニットバス。新しい生活を象徴するものは、きっとそれなのだ。物をスケールに使った幸福など信じていないはずなのに、その設備は、この歳の自分には、はっきりと詫びしいのだった。
ここから始めて、身の回りの物のレベルを上げてゆく。そのスタートラインに再び立ってしまったことに、削がれる希望は音をたてるかのようだった。
再び荷ほどきを始めると、小さな段ボールを開けてみることにした。そこには子供時代からの宝物が入っていて、引っ越す時には手をかけないでおいた。それを今開こうとしたのには特に理由はない。そう、なんとなくだった。
数冊の卒業アルバム、過去の親友からの手紙、お気に入りだった小物たち。それらに軽く触れていくと、心が休まるような気になっていった。そう、波立つ心を沈めようと、過去を使おうとしたのだ。だがそれはたいして効果がなかった。今の思考を一時停止するくらいがせいぜいだった。
だが、一本の試験管を見つけた時、何かがはっきりと変わるのが民子には分かった。小説でいえば、段落変えのような、いや、章が変わったかのような、いやもっと大きな変化だ。部屋の温度や色が、カレンダーをめくるように移ろったのだ。
民子の指がつまみ上げた試験管。その中には、あの日の海の砂が入っている。ああ、今ならあの時に帰ってもいいかもしれない。民子は、木目模様入りのフロアシートが敷かれた床に仰向けになり、目を閉じた。砂の入った試験管には両手が添えられて、胸の上に置かれた。
あの時の砂の感触を、民子は今でもよく覚えている。
石垣島の空港からレンタカーに乗ってホテルにチェックインする前に、島の北部へとドライブをしようと言ったのは、あっくんだった。民子はすでに彼の本名は忘れてしまった。確かあきらだったような気がする。
今思えば、あっくんは最初からその気だったのかもしれない。彼は19で民子は17だった。
陽は傾き始めていたから夕方だったにちがいない。あっくんに誘われた民子は、手を引かれて小さなビーチへ降り立った。振り返ると白いレンタカーが不安そうに小さく見えた。
踏みしめた砂は熱かった。ビーチサンダルの底からも怒っているかのような砂の熱が伝わってきた。水平線を見ると、白いヨットが一艘、遠くに霞んでいた。民子は、白いヨットが幻のように美しいと思った。そのことを今でもよく覚えている。
あっくんは、民子を木陰に導いた。ここなら熱くないから、と口にしながら。民子はやさしさを感じて嬉しかった。2つ上の兄のような存在だったあっくんが、恋人へと変身したのは、二週間前のこと。ほんの少し前なのに、今はこうして二人で南の島にいることが、不思議で、そして胸が高鳴った。
二人は仕事を通して知り合った。あっくんはヘアメイクのアシスタントで、民子は雑誌のモデルだった。あっくんと高校生だった民子は、内気な性格が共通点で、お互いにそこに親しみを感じて、時々会うようになった。それがデートだと気づいた頃には、あっくんは民子の中で大きな存在になっていた。
ヘアメイク見習いのあっくんは、会話の途中で自然に民子の髪型を手直しすることもあった。人に触られるのが苦手な民子なのに、それだけは大丈夫だった。仕事の延長のような気がしていたし、彼になら不思議と平気だった。
それなのに、ある日あっくんに髪を触られた時、民子はちょっと驚いて、わずかに身を引いてしまった。気づかれなければいいな、と咄嗟に民子は思ったが、あっくんは、ちゃんとそれに気づいて、ごめん、と漏らした。
おそらくあの時からなのだろう。民子があっくんを受け入れたのは。
その日の夕方に、新宿のラブホテルで民子とあっくんは初めてのことをした。お互いにそれぞれが初めてだという事実に驚いた。遅いよね、と二人は言い合い、それぞれ、時々ごめんと言うのだった。言外に、不慣れな自分を少しだけ恥入り、不慣れな相手を愛おしく感じた。
だが、二人とも、愛してるとは言い出せなかった。多分、そうなのだと感じながら、その言葉に見合う感情なのかが分からなかった。だから、二人は見つめ合うこともままならず、そうなりそうになると、静かに目をそらした。
二人は大きなベッドの上で、ぎこちなく揺れていた。その揺れに、心までもが離ればなれにならないように、相手にぎゅっとしがみついていた。
19と17は、すでに失われてしまったが、あの時の何かは、まだ新宿の片隅を漂っているような気がする。
石垣島へのチケットは、あっくんが民子にプレゼントした。師匠が、もっともっと苦しんで成長してほしいという願いをこめた9万円が、あっくんが毎月手にできる全てであった。そのことを知っていた民子は、チケット代を払うと何度も言ったが、あっくんは、いいんだよ、の一点張りだった。
モデルとして、まあまあ売れていた民子は、実際あっくんよりもお金を持っていたし、そのことなら、あっくんも知っていたけれど、熊本生まれのあっくんは、そういうのは男が払うものだと信じ込んでいた。女の子に払わせたら親父に殴られる、とあっくんは笑いながら説明するのがいつものことで、そう言われるたびに、民子はいつかきっと、あっくんのお父さんに会うことがあるのだろうと信じていた。
石垣島の小さなビーチに降り立った二人は、木陰の奥で ぎこちなく結ばれた。あっくんは砂が入らないようにと、民子を上にした。頭上では、すぐ近くの道路を通り過ぎる車の音がしていた。樹々の葉の間から、レンタカーの白い姿が見えているのを民子は見つけたが、誰も来ないことは知っていた。
誰も来ない世界に二人はいて、透明な膜に覆われている。民子はそれが破れてしまわないことを願った。
夜が来るまで二人は、木陰のビーチにい続けた。潮が満ち、波が二人のいるビーチを消してしまいそうだった。あっくんは、大丈夫だよ、もう少ししたら潮が引いていくと、少し重々しく言った。そのあとに、民子とアオカンしてみたかった、とぽそりと付け加えた。
アオカンというのは何だろう、と民子は思ったが口にしなかった。不要な質問があることを民子は知っていたからだ。
夕焼けが終わる頃、輝き始めた星々に、二人は手を伸ばした。仰向けになっていたから背中が砂の余熱で温かかった。金星を指で突っついたり、それぞれの左右の手を合わせて作ったハートマークの中に入れたりして遊んだ。時々キスをして、最後のアオカンをした。
「わたしたち、幸せになれるのかなあ」
民子の口から不意に出た言葉。
「僕はわからないけど、君はなれるよ」
あっくんは民子の耳たぶを噛みながら呟いた。
白いレンタカーに戻りながら、あっくんは、ちょっと待ってと言ってから、足元の砂を集めてポケットに詰め込んだ。記念だから、と微笑んだあっくんの横顔が、なんだか泣きそうな顔に見えた。
1LDKの部屋は、あの時のビーチとどう繋がっているのだろう。民子は試験管を元の箱に戻した。17のわたしは、35のわたしとどう繋がっているのだろう。
民子は立ち上がった。
民子は窓を開けた。
#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
#8 夏休みよ永遠に
#9 ノーリプライ
藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。
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