日系ブラジル人の足跡(前編)

NewsCafe / 2014年2月8日 9時0分

2014年初夏、世界中で開催を待ち望む人々で熱気が渦巻いているブラジルW杯。そして2年後には五輪を控え、施設建設と治安維持にカーニバルどころではない大国ブラジル。そんな地球の裏側に位置するブラジルは我々日本人にとって100年にも渡る深い関係をもっており、世界最大の日系コミュニティーを有する国だ。1900年初頭から当時の外務省とサンパウロ州政府との間で「皇国殖民会社」が設立され、同年ブラジルへの移民を募集をしたのが始まり。戦前に19万人、戦後に7万人がブラジルへ渡った。現在では、サンパウロ州を中心に150万人の日系が住んでいる。
しかし、それでも大国ブラジルの全人口に対する割合は1%未満と極めて少数。だが、日系の存在はブラジル社会にとって重要な役割を担っている。今回は、その日系ブラジル人の足跡を辿ります。

・「夢の大地、伯剌西爾」

明治維新で社会体制が大きく変化し農民がその打撃を受けた。深刻な貧困化に喘いでいた農民らを【夢の大地】と宣伝しブラジルへの移民を募った。当時、小学校教員の初月給が13円という時代に、募集案内書には「少なくとも一日に総収入壱円八拾銭を獲得することを得るなり而して一日の費用差引純収入は壱円五拾銭なり」と記し、家族3人で働けば1年で最低でも千円以上をためることができる計算に、異国で成功して日本に帰化することを考え800名弱(主に沖縄出身者)の移民希望者が集まった。
1908年に初の移民船「笠戸丸」が神戸港を出港し、約50日間の航海を経てサンパウロへ入った。移民らの大半はコーヒー農園での労働に従事した。
しかし、待ち受けていた現実に誰もが失望してしまう。住環境は悪く労働は過酷で賃金の悪さなどの待遇が悪かったために、帰国のための貯金どころではなく借金が増える一方であった。

・「死闘の日々、棄てられた民」

次第に、劣悪な環境下に置かれていた労働者の中で夜逃げや、ストレス過労から体力が弱まり疫病で息をひきとる人々がでてくる。一部のコーヒー農園を除くとその実生活は奴隷に等しい扱いだった。
移民当事者の言葉によれば、まさに「生き地獄」であったと表現している。
一向に成功へ道筋は見えず、国に見捨てられたという喪失感から日本人の中で「棄民政策」と揶揄する声もあった。農園に定着したのは、僅か4分の1。こういった現状に聞く耳を持たずしてその2年後には900名を送り出している。

・「成功と定住化」

ほどなくして、コーヒー農園から逃亡した多くの日本人らは僅かに得た収入を資金に農業組合や日系コミュニティーを形成していった。1919年の日系農業組合設立から始まり、その後ブラジル農業の振興に大きな役割を果たす農業組合が多数出来てゆくこととなる。
自作農として独立、成功を手にする者や、サンパウロを中心に日系向けの各種商店や工場、医師を開業する者が現れ、手を取り合い日系の社会的地位を築きはじめる。

・「母国、日本との対立」

ブラジルは、第二次世界大戦において当初は中立を守っていたが、米からの圧力により連合国として参戦する。敵国となった日本に対し、日系の大西洋沿岸からの退去を命じた。
多くの日系人が職業、不動産を奪われ、未開拓地に強制的に再配耕され辛酸をなめることを余儀なくされた。
さらに、苦楽をともにしてきた日系移民らの関係は「ある事件」を境に二つに分裂する事態へ発展する。【後編へと続く】

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