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日本の民主主義はどうして「順序が逆」なのか? - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 / 2013年12月10日 12時8分



 これでは、主権者である国民の意見、すなわち「世論」が政治に反映されていないことになります。民主主義が機能していないのです。そればかりか、決定された政策や法律の「正当性」が脆弱なままで放置されることになります。一体どうしてこういうことが起きるのでしょうか?

 そこには大きく根深い問題があります。それは世論が漠然と持っている感情論や印象論が、政治や行政の直面している現実と著しく乖離しているということです。

 世界ではスパイ組織の集めた秘密情報を元にテロ防止作戦などをやっているのに、日本の世論は「かつてそうしたスパイや国家機密を認めたが故に亡国に至った」という不信感が根強く、実務的な議論に応じてくれないわけです。高齢者医療の問題も、日本の少子高齢化と、これに伴う国家財政への負荷増という現実を直視して、積極的に不利益変更に応ずるような世論の姿勢はほぼ皆無です。

 そうなると、政治は、自分が悪玉になって現実と世論の間で「消耗」する役を負うしかないわけです。別に安倍首相は「詳細を隠したまま法案を可決して事実上の独裁をやろう」という悪意あるいは決意を持っていたのではないと思います。誠実に説明しても理解されないという悲観的な判断を前提に、事実上与党単独での採決を行い、その結果として自分の政治的な資産、つまり信任とか信用とか人気の度合いをすり減らしても「仕方がない」という一種の覚悟を持ってやっているのだと思います。

 メディアにしても、可決前に実務的な必要性の議論をキチンとやろうとすると「難しくて世論の受けは悪いだろう」という判断があったのだと思います。ですから、可決前の時点では反対の論陣としては「民主主義の危機だ」などという印象論ばかりになり、賛成派の論陣にしても反対論への反批判、つまり「サヨクの売国的な空想論には反対」的な裏返しになってしまうわけです。要するに政治とメディアと「絶叫デモ隊」が一種の共犯関係を作り上げ、全体として実務的な議論をサボったわけです。

 そう考えるばかりでは、民主主義の成熟がどうとか、民度がどうとかいう絶望的な話へと流れそうになります。更に言えば、今後「負担増」とか「痛み」という言い方で様々な不利益変更が行われていく中で、こうした傾向、つまり世論の賛否を「正直に受け止めた」政治というのは益々難しくなっていく懸念があります。

 そんな中、一つのヒントになりそうなのが、今回の法案可決劇に派生した形で起きた「みんなの党」の空中分解です。これは、一見すると渡辺喜美氏と江田憲司氏の確執の結果、つまりは個人的なヒューマンドラマに過ぎないように見えます。



 ですが、深層にはもっと別の構造的な問題があると思うのです。それは「党議拘束の無意味さ」ということです。政権や所属政党が民意を無視して法案を可決してしまい、その後で「周知徹底、懸念払拭」をやると言っても、個々の議員の事情は複雑です。

 特に衆議院の小選挙区の選出議員は、極めて特定の地域の有権者の代表として国会に来ているわけで、民意を完全に無視していては次の選挙が危なくなるわけです。今回の「みんなの党」瓦解事件の背景にあるメカニズムは、他の要素も含めた複雑なもののようですが、こうした切り口から理解するとスッキリするように思うのです。

 この際、首班指名と予算案以外は党議拘束を外して、議員が「選挙区の民意を代表する」ようにすれば、政治と世論の乖離には一定の歯止めが出来るのではないでしょうか?

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