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『永遠の0』の何が問題なのか? - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 / 2014年2月6日 13時42分

 これは大変に難しいことです。例えば、本作の中で批判されているように、特攻を全否定する勢いで「個々の犠牲者まで戦犯扱い」するというような風潮があったのも事実で、それはその人がジレンマを背負うことができずに単純な回答に逃げたからです。また特攻に関係した多くの人々や同世代人が沈黙を守ってきたのも、そのジレンマを語る難しさのためであったと思います。

 本作の問題点は、この重たいジレンマを背負っているのかというと、そうではないということです。

 ちなみに、作品中の特攻に対する歴史的な見解としてはどうかというと、敗戦を前提とした絶望的なものだということは述べられています。また太平洋戦線の全体に関しても、真珠湾での空母索敵失敗やミッドウェイに始まる作戦の錯誤への批判も一応入っています。



 ですが、問題は「個々の特攻隊員の悲劇」へ感情移入する余りに、「特攻隊全体」への同情や「特攻はムダではなかった」という心情を否定しきれていないのです。作戦への批判は入っているのですが、本作における作戦批判は「主人公達の悲劇性を高める」セッティングとして「帳消しに」されてしまうのです。その結果として、観客なり読者には「重たいジレンマ」を感じることなく、悲劇への共感ないし畏敬の念だけが残ってしまうのです。

 もっと言えば、小説にも映画にも「個々の特攻隊員の悲劇」への畏敬の念を「個々ではなく全体への畏敬の念にしていきたい」、あるいは畏敬の念を「公的なものにして欲しい」あるいは「集団で主張することを認めて欲しい」という思想性が見て取れます。こうした主張は、21世紀の日本という国を国際的な孤立へと追いやる危険のある「不必要な行動」です。

 作品中には「特攻は自爆テロではない」という主張が掲げられています。そのこと自体は間違ってはいません。戦時国際法に基づく戦闘行為と、個人による政治的な殺人行為とは質的に異なるのは事実だからです。

 ですが、いかに戦闘行為の一環であったとしても、20世紀という時代に公式の軍事作戦として、国軍の正規の作戦命令として「自爆攻撃」を強いたというのは、第二次大戦末期の大日本帝国だけであった、これは大変に重たい事実です。そして、そのような作戦を採用したという事実は、公的にも私的にも強く否定されなくてはなりません。また戦後の日本と日本人は実際に強く否定をしてきたのです。そのことが日本の国際的な信用につながっています。

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