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イラク、「宗派的に見える」ことが問題 - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 / 2015年5月19日 14時28分

 そんな状況を見て、メディアはたいてい「イラクではスンナ派とシーア派の宗派対立があるから難しい」、と書く。IS=スンナ派なので、イラン=シーア派を面白く思わないイラクのスンナ派は、シーア派主流の今の政権に反発して、「ISのほうがまだましだ」と考えている----。そんなふうに、理解しがちだ。

 だが、イラクが抱える「宗派問題」はもう少し、複雑である。というのも、シーア派もスンナ派も、どちらも自分たちの行動を宗派主義的だとは決して思っていないからだ。それどころか、自分たちこそが「正しくイラク人として行動している」と考えている。ハシェドに集う若者たちは、「シーア派を守る」以上に、「われこそはイラクという祖国を守っているのだ」という自覚を強く持っている。イラクのシーア派知識人たちの多くが、ハシェド=シーア派民兵、との認識に対して「いや、スンナ派やキリスト教徒もいるから」と、「オール・イラク」としての性格を強調する。

 だが、このハシェドの行動に対して、「それは私が考えているイラクではない」と感じるのが、スンナ派住民だ。シーア派の宗教指導者の呼びかけにこたえ、イランからの支援を受けておきながら、「われこそは正しいイラク人だ」と主張しても、それは受け入れられないぞ、とスンナ派は感じる。一方、シーア派側は、いやだって、今の現状でISに対抗できる軍事力を持つ国はイランしかないし、戦闘員を集めるには宗教指導者の鶴の一声を頼るしかないじゃないか、宗派云々という以上に、合理的選択としてそうするしかないでしょ?と、反論する。

 そう、ここにあるのは宗派の対立ではなく、ある特定の、政治的に優位にある宗派なり集団が、自分たちが当然でしょと考える考えは他の集団にとっても当然であるべきだ、と考えることの問題である。そして、政治的に劣位におかれた集団にとっては、優位におかれた集団がやることなすこと、それがいかに合理的であっても自分たちをないがしろにしている、と感じることだ。

 この関係は、イラクでスンナ派が政治的に優位にいてシーア派が劣位に置かれていたときも、同じだ。スンナ派は、自分たちがスンナ派の利益のために動いているなどと、考えたこともない。だが、シーア派にとっては、ことごとくそれがシーア派をないがしろにするものと見えた。

 いいかえれば、そう見えてしまうことが問題なのであって、宗派が違うこと自体が問題ではないということだ。

 シーア派人口が多いのにスンナ派の王族が支配するバハレーンでも似たような例が聞かれる。反政府活動として共闘していたスンナ派の知識人とシーア派の知識人が袂をわかったときに、あるスンナ派知識人が言ったこと。「私たちは世俗的で宗教色を出さないのに、シーア派の活動家は宗派色満載なんだもの」。

 その知識人は、自分たちが言う「宗教色のなさ」が、他の宗派からすると「スンナ派にとっては当たり前すぎて見えないスンナ派的世界」だ、ということに、気がついていない。一方で、シーア派知識人は、政府に反対するために抑圧されていることをなんでもやっているだけだ、と思っているのに、それは他の宗派からすると、とても「シーア派的」に見える。

 ことの始めから、宗派は対立していたわけではない。だが、いったんすべての差異が宗派のせいに見えてしまった後は、それをどう「見えなくする」ことができるのか。それが問題だ。

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