歴史の中の多様な「性」(1)
ニューズウィーク日本版 / 2015年11月30日 20時0分
男児に生まれながら女児として育てられ「娘」として成人したお乙は、早蔵から求婚されたとき、自分が女子ではないことをカミングアウトし、早蔵はお乙が男子であることを承知の上で婚礼をあげ、三年間、平穏に暮らしていた。だましたわけでも、だまされたわけでもなく、周囲の人も事実を知ってか知らずか、二人を夫婦として受け入れていたと思われる。
つまり、この錦絵新聞は、明治最初期に実質的な同性婚が日本に存在していたことを示している。同時に、男性と女装男子の平穏な夫婦生活、早蔵・お乙の小さな幸せを破壊したのが戸籍という近代的な制度だったこともわかる。
全国一律の戸籍制度は、国家が個別的な人身把握を徹底化し、それに基づいて婚姻・家制度を確立し、徴税・徴兵など近代国家システムを遂行する上で不可欠のものだった。厳格な近代戸籍制度の元では、男児として生まれながら女子として生きる女装男子や、男と女装男子の夫婦が存在できる余地はなくなってしまったのだ(三橋順子『女装と日本人』講談社現代新書、二〇〇八年)。
逆に言えば、江戸時代には、そうした余地があったということである。平安時代の前期(九世紀)に律令制に基づく戸籍制度が崩壊して以来、日本では国家が婚姻を厳格に把握するシステムは存在せず、慣習法に基づく事実婚に近い形が長らく行われてきた。
江戸時代の人身把握は、町・村ごとに町年寄・名主や庄屋が作成し管理する宗門人別改帳によって行われていた。ある男女が祝言(しゆうげん)をあげた場合、妻の名と年齢、そして檀徒として属する寺院名などが、宗門人別改帳の夫の脇に書き加えられる。しかし、実際にはかなりルーズで、名は記されず「女房」とだけ記される場合もあり、出生地の檀那寺への確認も必ずしもされなかった。そうした緩いシステムが、お乙のような「あいまいな性」の人の存在を許していた。
この錦絵が実際の姿を描いたものなら、お乙が男性であることが露見し、早蔵との夫婦関係が認められなくなった後も、二人はいっしょに住み続けたことになる。私としてはせめてそうであってほしいと思う。
近代戸籍制度が確立されたことで、法的には同性婚は不可能になった。ということは、同性パートナーの公認を否定する意見②の「日本社会の伝統」とは、近代以降のことを指すことになる。しかし、前近代(律令国家の成立から数えても)一二〇〇年余の形を否定して、近代一五〇年足らずの形を「日本社会の伝統」とする思考法は、歴史研究者である私には納得できない。
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