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【再録】レイア姫が語った『エピソード4』の思い出

ニューズウィーク日本版 / 2015年12月15日 19時38分

 有名人としての振る舞い方も知らなかった。宣伝ツアーで全米を回ったときは、マスコミの取材がすむと地元の遊園地に直行した。シアトルでハリソンが、トークショーに出たスーツ姿のまま、観覧車の箱の中でふざけていた姿が目に焼きついている。

 撮影中の思い出といえば『ジェダイの帰還』で着た鉄のビキニは忘れられない。地獄の責め苦みたいなものだったから。

 私はすべてに現実感がわかない年ごろに、まるで現実味のないセットで撮影していた。あの妙ちきりんな髪形にするだけで2時間もかかった。

あのころジョージは無口だった

 どういうわけか、宇宙には下着というものがないらしく、ブラジャーはつけていなかったから、走るシーンになると胸をテープでとめられた。私はこう言っていた。「この撮影が終わったら、スタッフみんなでオークションをしましょう。勝った人に、私の胸のテープをはがさせてあげる」

 それで、また思い出した。日記には、こんなことも書いてあった。「変人には3つの段階がある。①救いようのある変人 ②変人 ③救いようのない変人」

 1作目の撮影が終わると、ジョージはロンドンで編集をした。私もそこで、自分のテーマ曲を聞かせてもらった。それも、ジョン・ウィリアムズ指揮のロンドン交響楽団の演奏で。もちろん、自分のテーマ曲を作ってもらったのは初めてだった。

 あのころのジョージは無口だった。撮影現場を取材に来たロサンゼルス・タイムズ紙の記者が、3日目に「ところで監督はどの人なの?」と言ったというジョークがあったほどだ。

 撮影のとき、ジョージは2つのことしか言わなかった。「もっと速く」と「もっと激しく」。撮影中のある日、彼の声が出なくなったことがあった。でも、もともと無口な人だから、誰も気づかなかった。私たちは、ジョージが2つの指示を出せるよう2種類のホーンを用意しようかなどと、みんなで冗談を言っていた。

 完成した作品を見るのは、いつも妙な気分だった。私たちにとっては、ホームムービーのようなものだった。宇宙を舞台にした、とてもよくできたホームムービー。

 撮影の間、私たちはほとんど出ずっぱりだったけれど、あるとき、宇宙人の衣装を着たまま1日中待たされたことがあった。5時になると、ハリソンはプロデューサーの部屋に行って言った。死ぬときにこの1日を返してほしいって。でも私は、自分なら人生の真ん中で返してもらいたいと思った。ちょうど今ごろの時期に。

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