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<震災から5年・被災者は今(2)> 原発作業で浴びた放射線への不安

ニューズウィーク日本版 / 2016年3月3日 10時50分

 建物内の空いたスペースで少し寝てから、自宅の妻に何度も電話をかけたが、なかなかつながらない。何十回目かにやっと連絡がつくと、中川は妻に、とにかくすぐに荷物をまとめて、3人の子供と年配の母を連れて遠くに逃げるよう告げた。それからしばらくして、1号機が水素爆発する。「免震棟にいたのですが、すさまじい爆音で、また地震が来たのかと思った。恐ろしくて、私もパニックになった」と、中川は言う。「みんなが、すべての原子炉が爆発すると騒ぎだした。私はタイミングを見て、チームのメンバーと一緒に車に飛び乗って原発を離れた」

 一旦原発から離れ、誰もいない自宅に戻って冷静になってみると、暴走している原発の状況をどうにかできるのは、これまでそこで働いてきた自分たちしかいないという思いに駆られた。そもそも原発がなければ自分たちの仕事は存在しない。そんな時に、上司から電話を受けた。「会社が今の給料の10倍を出すという言葉もあって、翌日に原発周辺の復旧作業に加わることを決めた」と、中川は言う。

 中川は13日から、第一原発のすぐそばにある変電所などで電源の復旧といった作業に参加した。だが最初の2日間はタイベック(防護服)も身に付けず、普通の作業服での作業だった。今考えるとあまりに無防備に思えるし、本人も漠然とした不安はあったが、それでも「大丈夫だろう」とも考えていた。

 そんな状況で最悪の事態が起きる。14日に、3号機が水素爆発したのだ。

【参考記事】氷の壁はフクシマを救えるか

 中川はこう振り返る。「ボーンという音で爆発が起きて、すぐ目の前でピンク色のキノコ雲が立ち上るのを見た。さすがにやばいと思った」。自分が普通の作業着に、風邪の時につけるようなマスクをしているだけだということに、ハッと気がついた。しかも浴びた放射線量を管理する線量計も装着しないまま作業を行っていた。

 だがその後も、現場を離れることはままならず、変電所の床で寝て、1週間の作業を続けた。3日目くらいからは、きちんとタイベックを着るようになった。そして1週間後、中川は作業を終え、家族が身を寄せる避難所に合流した。「今考えるとあの1週間、とんでもない場所にいたと今さらながら思う」と、中川は言う。「無謀だったとしか言えない」

 それでも、再び上司からの仕事の復帰要請があり、事故の1カ月後である4月から4カ月間ほど、原発の敷地外で働くことを条件に復旧作業に戻った。その頃にはAPD(警報付きポケット線量計)を必ず装着した。だが8月以降は、原発とは関係ない仕事に転職した。

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