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【再録】昭和天皇インタビューを私はいかにして実現したか

ニューズウィーク日本版 / 2016年3月23日 15時51分

 6月には私の願いがかなう方向で合意が成立していたが、最終決定は9月まで待つよう言われた。天皇の訪米は、75年9月30日〜10月14日の予定だった。

 だがその後、問題が発生した。宮沢によると、宮内庁の宇佐美毅長官が、ニューズウィークの取材には同意したものの、私ではなく編集長がインタビューしてはどうかと言っているという。

 数年前に私が書いた記事がまずかったらしい。外国ではほとんど知られていない日本の実力者を取り上げた記事だ。その中で私は宇佐美を「陰の天皇」と紹介した。これが彼の気に障ったようだった。

 私は約15年にわたって日本に関する正しい情報を世界に伝えてきたと、宮沢に主張した。日本が天皇インタビューから私をはずすなら、他の国への異動を願い出ると言った。

締め切りを1日延ばして

 宮沢は、宇佐美をなだめる方法を見つけてはどうかと言った。

 そこで私は、宇佐美に近い2人の人物の助けを求めることにした。1人は木村俊夫。前外相で宇佐美の親戚だ。木村は、私がインタビューして書いた記事を気に入ってくれて、娘の結婚式にも招いてくれた。

 私は、宮内庁の湯川盛夫式部官長も知っていた。日産の広報担当だった湯川の息子とはしょっちゅう会っていた。私と妻は、知り合いの政治家の娘と彼の見合いを画策したこともあった。

 木村と湯川は、宇佐美へのとりなしを引き受けてくれた。おかげで、宇佐美は私に対する反対を撤回。9月前半、インタビュー許可の知らせが届いた。

 このプロジェクトは、妻と私のアシスタント、ニューズウィーク本社の国際ニュース担当エドワード・クライン以外には秘密だった。ワシントン・ポスト紙とオフィスが同じだったので、同紙のドン・オーバードーファー記者にテレックスを見られることを考え、エドとの連絡では天皇を示す暗号として「農民」という言葉を使った。

 インタビューの日時は、9月20日土曜日の午前11時に決まった。天皇がアメリカに出発する10日前だ。翌週月曜日には、米ジャーナリスト二十数人による合同記者会見が予定されていた。

 取材日が土曜日に設定されたのは、外務省の誰かがニューズウィークだけの特ダネにならないようにと配慮した結果だろう。通常のスケジュールでは記事の締め切りは金曜日なので、土曜日に記事を書いたのでは、日本で翌週火曜日に発売される号には間に合わない。

 私はエドと相談し、天皇インタビューの分だけ締め切りを延ばしてもらい、翌週発売号に掲載できるようにした。

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