ザハ・ハディードの死 - 酒井啓子 中東徒然日記
ニューズウィーク日本版 / 2016年4月1日 21時15分
このカーシムの時代(1958-63年)というのが、今も昔も、多くのイラク人が「昔はよかった」と懐かしむ時代である。王政という植民地支配のくびきから脱出したあとの高揚感。そして、その後のフセイン政権のような警察国家にもまだなっていない、混乱はしたけれども自由と解放感と希望があふれていた時代。
なにより今のイラク人がカーシム時代に憧れる最大の理由は、宗派や民族の対立が最も少なかったという記憶があるからだ。カーシム自身はスンナ派のアラブ人なのだが、母親がフェイリー・クルドというシーア派のクルド人であったといわれる。その出自の複雑さを利用して、カーシムは自分のことを、「スンナ派、シーア派、クルドの三つのアイデンティティを融合したイラク人」というイメージで喧伝した。閣僚登用においても宗派、民族バランスが最もとれていた時代、と言われる。
さらにカーシムの人気が高いのは、その社会主義的政策だ。カーシムに出身政党はなかったが、当時勢いを伸ばしつつあったアラブ・ナショナリスト勢力に対抗するために、イラク共産党を大いに利用した。上記の農地改革や国有化政策は、その一環である。ハディードを含め、左派系の政治家、閣僚を重用したことは、当時の知識人層の方向性にフィットした。
カーシムがこのような政策をとったのは、クーデタからわずか一年の間である。その後彼は独裁色を強め、アラブ・ナショナリスト軍人によるさらなるクーデタを受けて、殺害されてしまうのだが、わずか一年の経験が「善政」と記憶され、長くイラク人のイメージに残っている。イラク戦争後、フセイン政権が倒れて政治的自由を謳歌したイラクでは、バグダードをはじめ全国で、カーシムの肖像画が掲げられた。シーア派のイスラーム主義を賛美する週刊誌に、カーシムの偉業を称える特集が組まれたりする。サッダーム・フセインは若い頃カーシム暗殺事件に連座したことがあるので、その怨念もあるのかもしれない。
つまるところ、ザハ・ハディードの父親世代は、すべてのイラク人にとって、失われた良き時代のエリートなのだろう。イラク人だけではない。この世代の亡命者をイラクから多く受け入れてきたイギリスもまた、かつての植民地支配相手への未練があるのかもしれない。
などと考えていたら、同僚が教えてくれた。イギリス間接統治時代の王族、ハーシム一族の末裔たるシャリーフ・アリーの名前が、組閣中の現イラク政府の外相ポストに上がったとか。シャリーフ・アリーは、イラク戦争前にアメリカが、戦後イラクを担う人材を探していた際に、イギリスが「この人はいかが」と提案した人物だ。それまでは全く知られていなかった人物で、戦後は生き馬の目を抜くような現実の権力政治のなかで、早々に姿を消していた。
イギリスは「古き良きイラクのエリート」にまだ期待を抱いているかもしれないが、肝心のイラクはどうだろう。
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