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【まんが】『武士道』を書いたのはキリスト教徒だった

ニューズウィーク日本版 / 2016年4月5日 10時55分

<参考記事>【動画】外国人を(嵐よりも)魅了するサムライ集団「TAO」って何者?

新渡戸稲造とは何者か!?

『武士道』の内容に入る前に、『武士道』を書いた新渡戸稲造がどんな人だったのか、彼が生きたのはどんな時代だったのか、簡単に見てみましょう。

 新渡戸稲造は1862年、現在の岩手県盛岡市に生まれました。1862年というと、江戸時代の終わりです。

 江戸時代、200年以上の長期にわたって日本は鎖国していたのですが、1853年にアメリカ合衆国の「黒船」がやってきて、日本に開国を迫りました。これを受けて鎖国を解いた日本は、徳川幕府を中心とした武家社会から、天皇を中心とした社会へと移行します。これが明治維新です。このとき、日本の社会はヨーロッパやアメリカの制度・文化を非常にうまく取り入れて、急速に近代化しました。

『まんがで人生が変わる! 武士道――世界を魅了する日本人魂の秘密』より

 新渡戸は、「黒船」来航と明治維新との間に、武士の家の三男として生まれます。幼いときはサムライの子としての教育を受けていたでしょうが、明治維新によって、サムライという階級は廃止されます。また、新渡戸家は当時としてはかなりハイカラな雰囲気で、西洋で作られたものが家の中に多くあったそうです。

 武士道の教えと西洋への憧れが、ともに稲造少年を育んでいったといえます。

新渡戸は、世界でどう活躍したか?

 新渡戸はやがて農学を学ぶことを志し、札幌農学校(現在の北海道大学)に入学します。

 ここは「少年よ、大志を抱け」の言葉で有名なウィリアム・スミス・クラーク(1826~1886年)が初代教頭を務めた、当時トップのエリート校です。

 新渡戸の入学と入れ違いでクラーク博士はアメリカに帰国してしまいましたが、博士の影響で学内にはキリスト教が広まっており、西洋のこともたくさん学べました。



 新渡戸もここでキリスト教の洗礼を受けます。同級生には、のちに世界で活躍するキリスト教思想家の内村鑑三(1861~1930年)がいました。クラーク博士の精神を受け継いで日本の発展に大きく貢献した新渡戸や内村らは、「札幌バンド」とも呼ばれます(「バンド」とは「人の集まり」という意味です)。

 札幌農学校を卒業した新渡戸は、「太平洋の懸橋」になって日本と西洋をつなぎたいと考え、アメリカやドイツに留学しました。彼の学問的実績は次第に、国内外で認められていきます。

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