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どうして被災県知事が情報の司令塔になれないのか? - 冷泉彰彦 プリンストン発 日本/アメリカ 新時代

ニューズウィーク日本版 / 2016年4月19日 12時0分

 知事は時にはざっくばらんに、時には真剣に怒ったりしながら、州民に情報提供をしながら、どうして強制避難措置になっているのかを説明したり、現状を確認したりしていました。このハリケーン被災というのは、大統領選の直前でしたが、知事は、自分は共和党員なのでロムニー候補を応援していたにも関わらず、オバマ大統領を被災地に招いて州と連邦が団結して復興への努力をするという超党派的なメッセージを出し、州民の喝采を浴びていたのも記憶に新しいところです。

 今回の熊本地震の場合も、蒲島郁夫知事がそのコミュニケーションの「ハブ」となって、その定例会見の場が「最新の事実の確認」の場となり、また「被災者へのメッセージ発信」も、「全国へのメッセージ発信」の場ともなる、そしてそのコミュニケーション全体が、蒲島知事という「顔の見える個人」を中心に回っていく、そのような方法論が取れれば、極めて効果的だと思うのです。

【参考記事】<震災から5年・被災者は今(1)> 義母と補償金を親族に奪われて

 例えば、全国の世論としては「どうして物資が届かないのか?」「どうして広域避難が難しいのか?」「支援として今は何をすべきなのか?」といった疑問があるわけです。また県民にとっては、「家屋が倒壊した場合は当面何に注意したらいいのか?」とか「家族構成はこうだが、どの避難所が適当なのか?」とか「水道やガスの復旧見込みは?」といった具体的な質問が山のようにあると思います。

 もちろん、細かな点まで定例会見で答えていては大変ですが、大きな方向性や、クリティカルな問題点に関しては、日々知事が肉声で対応していれば、安心感と信頼感がまったく違うのではないでしょうか?

 どうして東京の大手町の気象庁の会見が重視されたり、経験の浅いテレビ各局のレポーターによるランダムな情報がバラバラに出て来たりするのでしょうか? あるいはどうして被災者への注意事項を、東京などのスタジオから「専門家」がやっているのでしょうか? そして、玉石混交の情報がSNSで飛び交う中で、多くの人がそれに振り回されるのはどうしてなのでしょう?

 そうしたコミュニケーションの多くの部分は、できれば全部、熊本で蒲島知事がやって、メディアは、万が一それに対してチェックが必要な場合を想定して、冷静なファクト報道で補完する、それで良いと思うのですが、なぜそれではダメなのでしょうか?

 現場と中央政府の関係についても、不自然でムダが多いように思われます。例えば、菅官房長官も何度も会見していましたが、そのたびに「災害のプロでもない官邸詰め記者」が「現在の被害状況は?」などと、怖い顔をして突っ込むのは、なぜなのでしょう? 何となく「官邸の危機管理を試してやるぞ」的な意地悪なニュアンスを感じますし、それに対して官房長官が必死になって答える、ということも含めて、全体的に無駄なプロセスのように思います。

 熊本から遠く離れた官邸で、何度も緊急会議を首相が招集するというのも、どう考えてもセレモニー的に見えます。現場での迅速で現実的な対処にイニシアチブを任せて、中央政府はその支援に回るという役割分担には、どうしてできないのでしょう?

 例えば被災地であっても、知事の会見を取材するのは県庁記者クラブの独占で他のメディアは入れないとか、そういう理由があるのでしょうか? それとも、そんな高度な広報体制を敷ける準備は、都道府県レベルではできていないのでしょうか? それとも国家的危機には総理と官房長官が「顔」になるのが中央集権国家の「しきたり」なのでしょうか? ガチンコの会見の「場」を危機管理の司令塔にするようなカルチャーは、そもそも日本には馴染みがないのでしょうか? 何とも理解に苦しみます。

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