【写真特集】街角で会った少女を13年間撮り続けて
ニューズウィーク日本版 / 2016年5月2日 15時55分
2003年冬、イラン東部の都市マシュハド。寒い夜空の下、カフェの前の通りに体重計を置き、街行く人々の体重を量って代金をもらっている少女がいた。客が来ないときは、カフェからもれる光を頼りに勉強している姿が印象的だった。
彼女の名はファラシュテ。当時7歳のアフガニスタン難民だった。この子はこれからどう成長していくのだろう。彼女が大きくなっていく姿を写真に収めたい──。それから私は2年に1度のペースでイランを訪れるようになった。
【参考記事】Picture Power シリア難民が誇りと夢を取り戻した街
10歳、12歳、14歳。ファラシュテはまだ体重を量っていた。日中は学校に通い、夜になると兄や姉たちと一緒に路上に出る。
ファラシュテの両親は80年代に、ソ連に侵攻されたアフガニスタンからイランへ逃れてきた難民だ。当時イラクと戦争をしていたイランは国内の労働力不足を補う目的もあり、アフガン難民を多く受け入れた。ファラシュテはイラン生まれだが、難民の親から生まれた子供も難民の扱いになるという。
父親はかつて建設現場で働いていたが、心臓を患ってからは肉体労働ができなくなった。難民が単純労働以外の仕事に就くのは難しい。家計を支えていたのは子供たちだった。
ファラシュテには、幼い頃から働いているからか、妙に世間慣れしているのに、子供の無邪気さを失っていない魅力があった。外国人男性の私が街中で彼女を撮影していると、イラン人に絡まれることがよくあった。すると、ペルシャ語ができない私の代わりに彼女がいつも間に入り、毅然とした態度で追い払った。一方で、たとえば駄菓子屋でスナックを買うときなどは、本当にうれしそうにあどけない笑顔を見せた。
カメラの前でも大人びた表情をしたかと思えば、大口を開けて大笑いする。憂いを帯びた目を見せたり、おどけたり、生意気な顔になったり......。彼女が見せなかった唯一の表情は、難民という境遇を恨んだり悲しんだりする姿だったかもしれない。
ファラシュテは結局、14歳ぐらいまで路上での仕事を続けた。最初は私を警戒していた彼女の父親が、私を家に迎え入れてくれたのもちょうどその頃だった。ファラシュテと家族との時間にもカメラを向けられるようになった。
ソ連軍侵攻とそれに続く内戦、そして01年のアメリカの攻撃で始まったアフガン戦争──イランはアフガニスタンで紛争が起きるたびに多くの難民を受け入れてきた。現在、イランで暮らすアフガン難民は90万人以上とされる。難民キャンプに収容されているわけではない。大半が都市部で暮らし、働いたり学校へ通ったりと、表向きは社会に溶け込んでいるように見える。
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