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私たちは「聖人君子の集まり」じゃない!

ニューズウィーク日本版 / 2017年4月12日 17時30分

「おまけにフィリピンの税関はリストをかなり細かく出さないといけないので、ますます時間がかかります。ノルウェーからフランスのロジステック・センターを経由してマニラに運ぶはずだったんですが、色々ともつれまして。その間にもワクチンの消費期限は迫ってくるのでこっちはヒヤヒヤで」



すでにビールの乾杯は済んでいたかと思う。寿加さんはビール好きなので笑顔も漏れていたはずだ。しかしそれは寿加さんがタフなだけで、状況はなかなかに厳しかった。

「なんで、当初のミッション期間は過ぎたのですが、現地チームの要請もあって、いったん日本に帰って、また戻ってくることにしました」

タフな女性

そのタフさがどこから来るのか、俺は見慣れぬフィリピン料理がテーブルに届くのを横目にあれこれ質問を続けた。いつの間にか、レストランの中に濃いキャラクターの音楽家がトリオであらわれ、各テーブルで歌を聴かせ始めていた。やはり歌舞音曲にたけた人々の国だ。演奏は民謡らしきものから世界のポップスまで多様だった。

音楽の中で聞いた話によると、そもそも寿加さんは数年前インドへ着任するはずがビザが取れず、常にMSFが展開している南スーダンへ行き、1 ヶ月半のミッションを行った。北東部のメルートが任務地だったそうだが、そのうち戦闘地域が拡大してMSFの診療所が続けられなくなり、国連の基地に4日間避難、そして国外に退避した。もともと3ヶ月の予定だったミッションは、1ヵ月半に切り上げとなったらしい。

ストレスがかかる任務のあと、MSFは必ずスタッフに心理ケアの機会を与える。寿加さんの場合、ナイロビに送られてカウンセリングを受けた。なにしろMSFの診療所を開いていたときには、川の向こうから常にドーンドーンと爆弾らしき音がし、その診療所からさえも現地の患者が逃げて行くのを見るという壮絶な日々だったようだ。さらに、国連基地でも土嚢に囲まれた気温50度にもなるコンテナで避難生活を送り、武力衝突の銃弾がそのコンテナをかすめていくこともあったという。

「でも1ヶ月半しかいられなかったんで、もう一度メルートへ戻りたいって訴えたんですけど、現地の医療チームリーダーからは無理だとの返事で。ちなみに今でもその時に一緒だったメンバーとは交流が続いていて、彼らに会いにスペインに行くんです」

寿加さんはぎゃははという感じで笑った。やはりタフなのだ。

MSFに参加するまで

もともとは小学校の時にニュースでルワンダの大虐殺を知り、MSFに入りたいと思った人だった。高校時代はどんな仕事でも英語は身に着けておきたいと、米国オレゴン州のポートランドへ留学した。偶然にもそれはMSFマニラオフィスのリーダーであるジョーダンの故郷だから縁のようなものだ。大学では美術史を専攻したが、途中で自分が本当に何をしたいかわからなくなり、考えた末に大学を中退した。

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