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日露平和条約締結は日本の決断次第──そろそろ2島返還で決着の時だ

ニューズウィーク日本版 / 2018年9月14日 16時0分



冒頭紹介したプーチン発言の"平和条約締結後に北方領土の色丹島と歯舞群島の引き渡しをうたった1956年の日ソ共同宣言に言及した上で、「日本が履行を拒否した」と述べ、その結果、戦後70年にわたって交渉が続いていると主張"という部分は、こういった意味で、ある意味正解ともいえるのである。

なぜなら日本政府は少なくとも「ダレス恫喝」の前までは、国後・択捉の放棄を渋々ながら承認し、2島返還で決着(重光)という方向に動いていたからだ。その方針を1956年2月以降、強硬路線に転換したのは日本自身だったからである。

千島列島の定義そのものを変更して対応



しかし、日本政府は、国後・択捉を放棄し、歯舞群島・色丹の「2島」だけで平和条約を締結するはずだった自らの主張が4島返還(帰属確認)に急変した理屈を、どのように合理的に説明したのだろうか。すでに述べた通り、サンフランシスコ講和条約によって国後・択捉を含む全千島列島を放棄したのだ、と政府自らが認めているのだからである。

そこで日本政府は、「千島列島」の定義そのものを変更した。日本政府における千島列島は「得撫(ウルップ)島から占守(シュムシュ)島」を指し、国後・択捉はそもそも「放棄した千島列島には入らない、国後・択捉は千島列島ではないのだ」、という奇術を考案したのである。そしてこれが、現在でも続く日本政府の一貫した公式見解である。

戦前の教科書や地図を見ると・・・

が、国後・択捉は千島列島ではない、という主張はあまりにも無理筋である。例えば、



この画像は、1934年当時ごろの尋常小学校6年生向け(現在の小学校6年生)の地理の教科書の記述である(『具体化せる小学地理教材と教授法』西亀正夫著、厚生閣、1934年。赤線筆者)。ここでははっきりと「千島列島とは択捉島以下三十余の島々を云う」と、千島列島に択捉島が含まれることが、学校教育の現場で子供達に教えられていたことが分かる。



また、以下の地図は大正13年(1924年)に出版された一般的な日本地図の北海道部分(付千島列島)であるが、



筆者が赤囲み部分で明示したように、国後・択捉の上に「千島列島」と明示されている(『日本地図帖』、小川琢治著、成象堂、1924年)。

つまり、戦前、いや吉田茂などが自ら認めたように戦後の一時期まで、千島列島には国後・択捉が含まれるというのは、社会通念上の常識であった。国後・択捉は千島列島ではない、という現在の日本政府の公式見解の方が、どちらかと言えば非常識であり、無理筋であるのがおわかり頂けたであろう。4島返還(帰属確認)を主張するために、政府は「千島列島そのもの」の定義を1956年以降、無理矢理変更したのである。

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