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カレーと中華はなぜ「エスニック」ではないのか?...日本における「エスニック料理」への違和感

ニューズウィーク日本版 / 2023年11月3日 10時15分

月見うどんは「パスタと卵のポタージュ」と、コンニャクは「塊茎を用いたパテで、野菜とともにブイヨンで煮る」と説明されていた。

油揚げは「大豆のフロマージュ、もしくはパテをフライにしたもの」であり、カンピョウは「ある種の南瓜を長紐状に乾燥させたもので、湯掻く必要あり」であった。

フランス人が何とか日本の未知の食材を理解しようとすれば、このように表現するしかないのである。

もちろん彼らはそれを充分に奇異に感じる。だがフランス人が「和食」を典型的なアジアの「エスニック料理」だと見なしていることを、日本人は忘れてはならない。

『東京エスニック料理読本』(冬樹社)という本が出るというので、わたしは寄稿を求められた。1984年のことである。

わたしはこのブームに対する違和感を表明する文章を書いた。かつての宗主国の首都にかつての植民地の人間が住み着き、彼らが食と歌謡を媒介として文化的多元化を担うことになるという認識が、そこには欠落しているというのが、わたしの批判の主旨だった。

パリになぜヴェトナム料理店とクスクス屋が多いのか。東京と大阪になぜ焼肉屋が多いのか。アムステルダムになぜインドネシア料理店とスリナム料理店があるのか。

こうしたポスト植民地主義的な問題を考えずして、単に未知の「エスニック料理」に舌鼓を打つとしたら、それは食という行為が知らずと携えてしまう文化の政治性を隠蔽してしまうのではないか。

40年ほど前にわたしは書いた。表記を少し直して引用してみよう。

外国の、見知らぬ文化や民族の料理を食べることは、本当のことをいえば、不自然きわまりないことかもしれない。自分の母国語でない言語を何年間もかけて取得して語ることと同じくらいに、滑稽なことだとさえいえる。

ある不規則動詞の接続法半過去を人称別に暗誦してみせることと、風土の違いから自生していない香味野菜を入手しようと腐心して、高い金を払うことの間には、どこかしら類似した偏執趣味がある。

そう、現地に行けば子供でさえ自然に滑らかな言葉を口にし、われわれがレストランで支払う何分の一、何十分の一の値段で、本物の味覚を楽しんでいるではないか。

異国情緒はあらゆる不自然さを蔽い隠してしまう。世界のすべての文化は知られることを望んでいて、好奇心を抱いた何人にも好意的であるといった幻想を親しげに語りかける。

けれども、結局のところ、異国情緒とは、語りかけるこちら側の自己像の反映と優位の確認であることが判明する。世界全体を紋切型の絵葉書としてしか了解しない、狭小な思考法のことだ。

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