『ありふれた教室』は徹底的に地味、でもあり得ないほどの完成度だ
ニューズウィーク日本版 / 2024年5月8日 17時55分
森達也
<小銭の窃盗事件から始まり、事態は予想もつかない方向へ――ドイツの中学校が舞台の『ありふれた教室』は最後まで目が離せない>
「地味」を辞書で調べれば、「服装や性格、形や模様などが派手でないこと」「控えめなこと」「質素なこと」などとその意味が集約される。
「派手でないこと」が示すように直接的な定義ではなく、「派手」を否定することで「地味」を定義する。英語も同じらしい。conservative(保守的な)やlow-key(控えめな)という単語はあるにはあるが、unglamorous( 派手ではない)、inconspicuous(目立たない)などの表現が多用されるようだ。要するに、地味という言葉の定義は意外と難しい。
という前提をまず置いてから、今回の映画のレビューを書く。まずは地味な映画だ。著名な俳優はいない。少なくとも僕のレベルで、見覚えのある顔には出会わなかった。さらに、今作が長編4作目で日本初公開となるドイツ人監督のイルケル・チャタクの名前も初めて知った。
人が殺されたり死んだり、撃ったり撃たれたりするシーンはない。だから血しぶきもない。宇宙船や未知のモンスターはもちろん、国際的なテロのシンジケートやスパイも登場しない。当然ながら、CGを多用した派手な爆破シーンやカーチェイスもない。
原題は『Das Lehrerzimmer』。直訳すれば「職員室」だ。邦題は『ありふれた教室』。なるほど。過剰に意味付けする傾向が強い邦題についてはいつも違和感を持つが、今回は正解かも。とにかく徹底して地味な映画だ。
舞台はドイツの中学校。カメラはほぼその敷地から外には出ない。その意味では巨大な密室劇。あるいはグランドホテル方式だ。
物語の始まりのエピソードは、教室や職員室で起きた小銭の窃盗事件。誰が犯人なのか。生徒を疑う教師。守ろうとする教師。でも教師たちには事件化する意図はない。内輪で済ませるつもりだった。それが予想もつかない方向へ展開する。
特に後半であなたは、主人公である女性教師カーラの視点に自分を重ねるはずだ。少しずつ追い詰められる。生徒たちに。その親たちに。そして同僚である教師たちに。
自分は何を間違えたのか。どうすべきだったのか。今から修復はできないのか。あなたはカーラと一緒に思い惑う。悩む。でも事態は変わらない。いやもっと悪くなる。
正義のヒーローは現れないし、悪のカリスマも登場しない。教師たちも生徒たちもその親たちも、それぞれ性格に多少の難や一長一短はあるけれど、それも(誰もが持つ)日常的な誤差の範囲であり、基本的にはみな等身大でつつましい。
でも閉じた組織の中で小さくはじけた何かが、少しずつ周囲に連鎖し、やがて世界が一変する。いや、正確には世界は変わっていない。あなたの視点が変わっただけだ。ならば見慣れた光景が初めて見る景色になる。ずっと親しくしていた人が、初めて会う人のように分からなくなる。
最後まで目を離せない。音楽の使い方、言葉の一つ一つ、教室と職員室を行き来するカメラワーク、子供たちのちょっとしたしぐさ、映画を構成する全ての要素が、あり得ないほどの完成度に達している。ぎっしりと凝縮された99分だ。
『ありふれた教室』(5月17日公開)
©if... Productions/ZDF/arte MMXXII
監督/イルケル・チャタク
出演/レオニー・ベネシュ、レオナルト・シュテットニッシュ、エーファ・レーバウ
<本誌2024年5月14日号掲載>
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