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【「べらぼう」が10倍面白くなる!】平賀源内の序文だけじゃない! 蔦重が「吉原細見」にこめた工夫

ニューズウィーク日本版 / 2025年1月17日 16時50分

『一目千本』も『急戯花之名寄』も、評判記ではあるが、吉原の遊女全体を網羅しているわけではない。おそらく掲載された遊女や妓楼からの出資によって、贔屓客への土産のために作られたのだろう。吉原の人々からの信頼が厚い蔦重ならでは、といえる。

1775(安永4)年には、吉原細見の圧倒的なシェアを誇っていた鱗形屋が重板事件(無許可で他の版元の本を複製・販売した)に巻き込まれ、吉原細見の刊行ができない状態に陥っていた。その状況に目をつけたのが、蔦重であった。小売取次の蔦重が自ら、吉原細見の版元となったのである。

吉原細見を独占した蔦重の手腕

それまで吉原細見を独占していた版元・鱗形屋の代わりに、1775(安永4)年7月、蔦屋重三郎は版元としては初めてとなる吉原細見『籬の花(まがきのはな)』を刊行した。翌年から復活した鱗形屋版と蔦屋版、2種類の吉原細見がシェアを争うこととなる。鱗形屋は一時の勢いを失いつつあったからか、あるいは吉原で生まれ育ったという蔦重の境遇を活かした吉原関連の情報の質が上回ったからか、次第に蔦屋版が人気を博していった。

その後、1783(天明3)年には、吉原細見の出版は蔦屋版の独占となった。吉原細見自体は年2回、定期的に刊行されており、安定した収入が期待できる商品を独占したことは大きい。さらに、自店の出版目録を付すことで広く宣伝・広告の効果も期待できるつくりとなっていた。

安永年間には吉原細見だけでなく、さまざまな遊女評判記や洒落本、絵本や読本を刊行しているが、その版元の初期に、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)、北尾重政、勝川春章といった当時としては既に重鎮の地位にいるような人気戯作(げさく)者・浮世絵師を起用している。

鱗形屋で活躍していた著者・絵師らを引き継いだともいえるが、同時に、文化人が集まる社交場としても機能していた吉原の本屋・版元という特異なポジションを巧みに利用したのではないだろうか。

実際、天明期に入ってから、狂歌連による歌会の際には、吉原という土地柄を活かして、積極的に茶屋に招き、接待を行っている記録が、狂歌師たちの交友録に残されている。同様のことを、おそらくキャリアの初期から行っていたことだろう。

『吉原細見 五葉松(よしわらさいけん ごようまつ)』朋誠堂喜三二序・四方赤良(大田南畝)跋 1783(天明3)年正月 国立国会図書館蔵:蔦重版の吉原細見『五葉松』には、朋誠堂喜三二の序文に、四方赤良(大田南畝)の跋文、朱楽菅江(あけらかんこう)の狂歌が掲載されている。いずれも初期の蔦重を支えた書き手たちだ。

『Pen Books 蔦屋重三郎とその時代。』
 ペン編集部[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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