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世界の喜劇王「チャールズ・チャップリン」貧困の幼少期から映画界のスターとして成功するまでの道のりを解説

ニコニコニュース / 2024年11月25日 10時30分

  今回紹介する動画は、ニコニコ動画に投稿された『【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【チャールズ・チャップリン】』といういつかやる社長さんの動画。

  20世紀初頭の映画界で大活躍したチャールズ・チャップリンの一生について、音声読み上げソフトを使用して解説しています。


■喜劇王・チャップリンの一生

解説してくれるのはベルサユスタ
(投稿者・いつかやる社長さんの動画に登場するオリジナルキャラクター)

ユスタ:
 今日はチャップリンのお話で笑いの難しさを教えてあげるわ。まず彼を一言で言うなら、時代の漂流者(ドリフターズ)。いい意味でも悪い意味でも、時代を作り時代に流された人物だったわ。

 チャップリンは1889年、イギリスのロンドンで、彼と同じ役者であったチャールズ・チャップリン・シニアとハンナ・チャップリンの間に生まれる。父親はそれなりに有名な役者であったのだけど、チャップリンが生まれて間もなく離婚しており、その後、養育費の支払いもしなくなったため、母親のハンナひとりでチャップリンと4歳上の兄シドニーを育てていたわ。

ベルサ:
 お母さんは有名じゃなかったの?

ユスタ:
 役者としてそれなりに仕事は来ていたのだけど、売れていたというほどではなく、家族を養うには舞台の仕事以外に、洋裁や看護の仕事もしていたわ。しかし、家族が暮らしていくにはお金が足りず、それでも無理して働いていたため、喉の病気にかかってしまい、舞台の上で次第に歌が歌えなくなってしまったの。

ベルサ:
 可哀想すぎひん?

ユスタ:
 しかし、それがチャップリンを役者の道に進ませる大きな一歩にもなったわ。母がある小劇場で歌う仕事の最中に喉を潰してしまい、しゃがれた声で歌うハンナに大ブーイングが起こったの。これ以上歌えなくなったハンナの代わりとして、劇場の支配人は舞台袖でハンナの友人を笑わせていたチャップリンを急遽舞台に上げたの。

ベルサ:
 素人代役にするのかよ。

ユスタ:
 ここで彼は母親のものまねを披露。女性のような声で歌うだけでなく、器用にしゃがれた声まで真似するというアレンジまで加え、舞台は大ウケ。これこそが劇王チャップリンの初めてのステージとなったの。

ベルサ:
 すごいじゃん。

ユスタ:
 しかしこれ以降、ハンナの喉は悪くなる一方で、舞台に立つことはできなくなり、そのため経済的に困窮することになり、食事もまともに取れず、お腹が空いたら寝るという極貧生活を歩んでいたわ。

ベルサ:
 どのくらい貧しかったの?

ユスタ:
 チャップリンの幼少の思い出に、兄が拾ってきたお金で家族で食事できたことが一番嬉しかったとあるわ。だけど、そんな生活の中でもハンナは息子をこよなく愛し、食べるものがあればほとんどをチャップリンたちに与え、おもちゃや勉強道具は買い与えられなかったのだけど、外を歩く人々を見て即興で話を作り、それを演じては子供たちを楽しませ、それを子供たちが真似すれば「あなたは素晴らしい役者になれる」と褒めた。後にチャップリンは母親について「演技で笑っている間は空腹を忘れることができた」と言っているわ。

ベルサ:
 いいお母さんだね。

ユスタ:
 それでも生活は豊かになることはなく、チャップリンたち一家は別れた元父親からまとまったお金が払われるまで、貧民を収容する施設である救貧院に家族ごと送られ、とても厳しい幼少期を過ごす。

 救貧院を出てからは、母親は精神的な病により入院。兄のシドニーは14歳で船乗りとして働き始めたことで、チャップリンは9歳にして一人で生きていくことになったわ。

ベルサ:
 信じたくないくらい可哀想すぎない?

ユスタ:
 チャップリンは幼いながらもガラス職人や新聞配達などの仕事を続けると同時に、役者になるという夢を片時も忘れず、必死に母親から教わった演技を独学で磨き、ダンスを覚えるためにダンス劇団の座員になってみたり、また年齢を偽って役者の仕事斡旋所にも登録。子供にも関わらず知恵を絞って努力を続けていたの。

 そのおかげで紹介してもらったフラーマン劇団で子供の役を演じたことをきっかけに、シャーロック・ホームズの舞台にもビル・ウィギンズ役で出演したの。さらに、兄シドニーが船員の仕事を終え多少のお金を得ると、兄弟揃ってコメディアンになることを目指し始めるのだけど、チャップリンは若いということもあり、何をやっても受けることはなく、大ブーイングを何度も体験しているわ。

ベルサ:
 やっぱり難しい世界だね。

ユスタ:
 だけど兄のシドニーはコメディの名門のひとつ、フレッド・カーノー劇団に所属すると、瞬く間にに頭角を表し、花形コメディアンにまでなる。そんな兄の口利きでチャップリンもフレッド・カーノーに所属すると、シドニーと同様に瞬く間に出世を重ね、入団から2年で『恐れ知らずのジミー』という寸劇で主役に抜擢され、これが大成功を収めると、批評家からの評判も上がり、アメリカへの巡業にも参加し「ドジ酔っ払いの紳士」というキャラが大ウケし、彼の名前は一躍知れ渡っていくことになったの。

 そして、ここから彼は数多くの名作を残すことになっていくわ。ただ人を笑わせるだけではなく、多くのメッセージを劇を通して残していったわ。喜劇王と言われたチャールズ・チャップリンの本当のステージの幕開けだった。

 アメリカの巡業成功をきっかけに拠点を移すことを決心したチャップリンは、すぐに短編のコメディ映画を得意とするキーストン社と契約。翌月にはチャップリンのデビュー作『成功争ぴ』に主役で出演。これはチャップリン演じる詐欺師が新聞記者になり、ライバルの記者とスクープを巡って争うドタバタコメディよ。

ベルサ:
 いきなり主役はすごいね。

ユスタ:
 この映画では歩き方や階段からコケるなど、後のチャップリンを彷彿とさせるのだけど、監督が終始ボケるチャップリンを気に入らず、彼の独自のギャグシーンはほとんどカットされ、興行収入としても大コケしてしまうの。チャップリン本人も好きに出来ないことから、この作品を嫌っていたそうよ。

ベルサ:
 のちの喜劇王、全カットされるのかよ。

ユスタ:
 しかし、次の作品でついに世界中から愛されたチャーリーが登場することになるわ。そう、それは制作担当のセオットから「何か悲劇の仮装をしてこい」と言われ、衣装部屋に向かう最中に思いついた扮装。 ピチピチの上着にダブダブのズボンを履き、小さい帽子をかぶり、大きすぎる靴にステッキを持ち、小さな口髭をつける。後に放浪者チャーリーと愛される彼の代名詞の姿はここで誕生したの。

ベルサ:
 この感じ見たことある!

ユスタ:
 そして2作品目となるのが『ヴェニスの子供自動車競争』よ。子供の自動車レースを撮影しているカメラの前にひたすら現れ、いくらつまみ出されても何度でもカメラに映ろうと戻ってくるというコメディ。これを皮切りに放浪者のキャラクターで多くの作品に出演。ニューヨークで大ヒットを起こし、以降は主演だけでなく監督も自ら行い、『恋の二十分』や『とんだ災難』を世に送り出し、キーストン社で最大の興行収入を出しているわ。

ベルサ:
 才能の塊じゃん。

ユスタ:
 キーストン社との契約が満了すると、次にエッサネイ社に移籍し、『チャップリンの失恋』『チャップリンの掃除番』で大ヒットを記録し、特に1915年の『チャップリンの失恋』では、それまでの卑屈な女好きというキャラを、孤独で悲哀な姿の放浪者という形に変化させ、大成功。チャールズ・チャップリンという名前は世界的に有名になっていくの。

ベルサ:
 スターの道を登っていったんだね。

ユスタ:
 そんな喜劇役者として成功を収めたチャップリンなのだけど、ここからさらに彼にとっての転換点がやってくるわ。それは『新米雑役夫』という悲劇とサスペンスを合わせた映画の撮影中、撮影を見学していた観客のひとりが泣いているのを発見したの。

 チャップリンはなぜ泣くのか尋ねると、その客は「面白いはずなのに感動して涙が出てくる」と答えたの。それを聞いたチャップリンは、「自分の作品には人を笑わえるだけでなく、笑いも感動もある作品が作れるんだ」と考え、これ以降の彼の作品には、悲劇だけではなく人の心を感動させる作品を作っていくわ。

ベルサ:
 何でも映画につなげるんだね。

ユスタ:
 そして1916年、26歳の時にはミューチュアル社と契約し、1年間67万ドルという当時の最高額の契約を結び、『チャップリンの勇敢』や『チャップリンの霊泉』、『チャップリンの冒険』など、契約料以上の興行収入を上げるヒット作を数多く輩出。

 さらに、第一次世界大戦の時代にはアメリカから依頼され、戦時公債の購入を呼びかける映画を製作。 その公債募集ツアーの一環でワシントンで演説した時には、演説に興奮する観衆が舞台から転げ落ち、当時の海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルトの頭上に落下しているわ。

ベルサ:
 面白すぎるでしょ。

ユスタ:
 こうした活動から戦争賛美派と言われれば、戦争の愚かさを喜劇で表現し、戦争反対を訴えた『担え銃』も製作。また同年に放浪者チャーリーの完成形とも言われる作品、放浪者と野良犬の生活を描く『犬の生活』を公開。その後1919年に撮影スタジオ「ユナイテッド・アーティスツ」を設立すると、映画市場の大転換となる作品『キッド』を制作。

ベルサ:
 大転換?

ユスタ:
 そう、それまでの喜劇映画は笑えるシーンを撮ることに力が注がれていたのだけど、これは映画史上初となる喜劇と悲劇、そしてドラマを合わせた作品よ。放浪者が捨て子を拾い育て、ともに詐欺まがいのことをしながらも、次第に親としての愛情が芽生えていくという内容。チャップリンの幼い頃の体験が反映されているとも言われているわ。

ベルサ:
 名作です。

ユスタ:
 当然これもメガヒットを飛ばし、これ以降も長編映画を製作していくわ。1925年にはゴールドラッシュと、この時代に起きた大規模遭難事故に触発され『黄金強時代』を制作。これも当時では最高額の600万ドルの興行収入を得る。

 1931年には資本主義の負の部分を表現しており、目の見えない女性のためにお金を稼ぐためにチャップリンが奔走する『街の灯』を制作。1936年にアメリカを中心に世界恐慌が起こると、機械文明や資本主義で尊厳が失われた世界を表現した『モダン・タイムス』を制作。機械に巻き込まれても働く姿は喜劇と風刺の融合だったわ。

ベルサ:
 今でも面白い喜劇映画。

ユスタ:
 そして1940年にはナチスドイツが猛威を振るうと、チャップリンはヒトラーやナチスなんてのは笑いにしてやらねばと考え、自身初の完全トーキー映画『独裁者』を制作。自由や民主主義を否定する独裁者にそっくりな主人公がある出来事から独裁者と勘違いされてしまうというもの。

 勘違いされたまま行われる演説のシーンで、「すまない、私は皇帝なんかになりたくない」と始まり、自由や民主主義の大切さを訴え、兵士に「君たちは人間だ」と説き、独裁者を痛烈に批判する姿は圧巻よ。

ベルサ:
 歴史に残る名演説だよね。

ユスタ:
 チャップリンは映画を通して自らの考えを伝えていたの。社会風刺と喜劇、これこそがチャップリンが作り上げた完成形だったわ。しかし、こうした考えが悲劇を生み出すことにもなったわ。冷戦初期の1950年代にマッカーシーが主導して行われた共産主義の取り締まり運動「赤狩り」の対象となってしまい、チャップリンの作品は資本主義の否定や共産主義の要素があるとしてFBIまで巻き込む形でアメリカを追放されてしまうの。 

 これ以降、チャップリンは20年もの間アメリカに戻ることはできなかったの。 しかし世界はチャップリンへの愛を失うことなく、カンヌ国際映画祭特別賞やレジオンドヌール勲章などを受賞。また1970年代になると、追放したアメリカからも償いという意味でアカデミー名誉賞を贈られたわ。

ベルサ:
 やっぱりみんな好きだったんだね。

ユスタ:
 さらに祖国イギリスからも1975年にSirの称号が与えられた。そしてその2年後、世界中を笑顔にさせたチャップリンは88歳で人生というステージの幕を下ろしたわ。

 どんなに辛いことも全ては笑いに消化し、大成功を収めてきた彼はこんな言葉を残しているわ。「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」。人間だけが持つ特別で幸せな感情、笑い。その不思議な力を誰よりも理解していた彼らしい言葉だったわ。

 

 幼少期の貧困生活を乗り越え、見事に成功を掴んだチャップリンの人生は、笑いと涙に満ちた舞台でした。彼が残した数々の名作は、今でも多くの人々に愛され続けています。

 元の動画では、より詳しく解説を行っていますので、気になった方はぜひ動画をチェックしてみてください。


▼動画はこちらから視聴できます▼

『【ゆっくり解説】世界の奇人・変人・偉人紹介【チャールズ・チャップリン】

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