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海洋堂 創業者が語る日本の模型・フィギュアを支え続けた57年――ワンフェス運営・ガレージキット・完成品販売…プラモデル普及に生涯を賭けた親子二代の物語【話者:宮脇修・宮脇修一】

ニコニコニュース / 2021年6月26日 12時0分

 まず、こちらの写真をご覧いただきたい。

 今にも飛び立ちそうなこのオオスズメバチ、驚くことなかれ本物ではなくフィギュア(模型)なのだ。

 このフィギュアを手掛けたのは、今から57年前に大阪・守口で創業したフィギュアメーカーの「海洋堂」だ。
 現在では、海洋堂は広く一般に親しまれているキャラクターのフィギュアを手掛けつつ、先に述べたような、フィギュア愛好家も思わず唸る精巧なオリジナル商品を数多くリリースしている。

 また、幕張メッセで年間2回開催、毎回約5万人が来場する模型・フィギュア好きにはおなじみのイベント「ワンダーフェスティバル(通称:ワンフェス)」を主催し続けるイベント会社としての顔も海洋堂は合わせ持っている。

幕張メッセで開催されるワンフェスの様子。(写真提供:海洋堂)

 プロ・アマを問わず、自身がクリエイターとなって製作した模型・フィギュアを販売できる世界最大規模のイベントであるワンフェスは「当日版権システム」という独自の権利処理の方法で運営されている。
 つまり、ワンフェスでは規約に則って申請を行えば、一部の例外を除いて当日限定で「版権モノ」の商品を販売できるという、クリエイターにとって夢のようなシステムが採られているのだ。

 なぜ、いち模型メーカーである海洋堂がワンフェスの運営を行うのか?
 後に本記事で語られることだが、そこには御年93歳となる海洋堂創業者 宮脇修氏と、息子であり“センム”の愛称で親しまれる取締役専務 宮脇修一氏が親子二代にわたって模型・フィギュア業界を支え続けてきた歴史が存在する。
 ワンフェスが運営され、当日版権システムが実現していることはその一端に過ぎないのだ。

 6月26日に大阪・門真市にオープンする「海洋堂ホビーランド」は、そんな海洋堂の歴史を「すべて見せる」と銘打たれた集大成とも言える施設だ。施設の館長には先述の海洋堂創業者、宮脇修氏が就任する。

海洋堂ホビーランド(バナーをクリックで公式サイトへ)

 ニコニコニュース編集部では例年ワンフェス会場を中継していることが縁で、当施設のオープン初日に宮脇修一氏の案内で施設をニコニコ生放送で紹介することと相成った。

 さらに今回、海洋堂には生放送に先立ってウェブメディアとしては初となる宮脇修氏と宮脇修一氏、父子両名に話を聞く貴重な場を設けていただいた。

 「どのようにして小さな模型店から、精巧な技術を持つメーカーへと変わったのか?」「なぜ海洋堂が大規模イベントを運営するようになったのか?」「ワンフェスを支える“当日版権システム”が成立している理由は何なのか?」「他の模型メーカーが扱わないようなテーマを扱うのはなぜなのか?」

 両名へのインタビューでは、海洋堂に対して読者の皆様が抱いているであろう多くの疑問をぶつけることができた。しかし、インタビューの過程で明らかになったのはこれらの疑問に対する答えだけではなかった。

 そこには昭和の模型業界という未開拓なジャンルに単身飛び込んだ父親と、その背中を見て育った息子の二代にわたって繰り広げられた物語があった。本記事では、それらも余すことなくお届けしたい。

※本記事はホビーランドオープンに向けて準備をしている4月中に収録したものです。

取材/トロピカルボーイ田畑・腹八分目太郎
撮影/髙畑鍬名


――今日は、海洋堂の歴史をお二人から聞ければと思っています。よろしくお願いします!

センム:
 これまで単独でインタビューを受けることはあっても、こうしてお父ちゃん……館長と僕が一緒に取材でしゃべることってなかったんですわ。これは前代未聞やね。

左から海洋堂取締役専務 宮脇修一氏、創業者(海洋堂ホビーランド館長) 宮脇修氏

――先程、海洋堂の社員の方からも伺いましたが……そうらしいですね。厚かましいお願いだったかもしれません。

センム:
 いやいや! そういう誰も考えへんような意表をついた取材もおもろいんちゃいます? 

■模型屋か、うどん屋か……商売は木刀が倒れた方向で決めた!

――ではさっそく創業の経緯を教えていただけますでしょうか? 海洋堂は、宮脇修一センムのお父様である宮脇修館長が創業されたと聞いていますが。

センム:
 うちのお父ちゃんは僕が小学校に入学するときまでに正業に就いてなかったんですわ。

――つまり……職探しをしていたということでしょうか?

センム:
 いえ、普通の仕事をしてへんかったということです。貸本屋をやりながら、3ヶ月ほどふらっと放浪して小説を書いて帰ってくるというような生活を、僕が幼稚園の頃まで続けてたんです。
 僕が小学校に入るときにやっと、「ほな、何か仕事始めよか」ということで、うどん屋か模型屋のどちらかをするつもりで、木刀を倒して決定したというわけです。

――ぼ、木刀!?

館長:
 おーい! あの木刀あるか?

(スタッフが木刀を持ってくる)

――結構、本格的な木刀を使ったんですね。

館長:
 芝居がかっとることなんですがね。これを玄関に吊るして、床に「東西南北」をそれぞれ書いた紙を置いてやね……木刀を吊るしとる糸を切ったら、「東西」やったらうどん屋、「南北」やったら模型屋、どちらの方向に落ちるかというので天に任せたんです。息子が1年生になっとるのに、親が何もしてへんかったらかっこ悪いやないですか。

センム:
 ひょっとしたら今頃、海洋堂はうどんチェーンになっとったかもしれません。このときまでにお父ちゃんはもう三十回以上も職業を変えとります。おかしいでしょう(笑)?

――三十回以上ですか……今でこそ、いろいろな父親のあり方が認められるようになってきていると思いますが、昭和のその時代では「父親が正業に就いていないと恥ずかしい」といった感覚は強かったのだろうと思います。

館長:
 まぁ、何ちゅうことはないんですが、やっぱり一人の親としての商売を、とね。ちっさい一坪半のプラモデル屋をやっとる中で、やはりやる限りは日本一になろう! と、その頃から思っとりました。

 息子もプラモデル屋やったら嬉しかったかというと、ほとんどそんなこともなしに、家族全員もう必死です。ちっさい店やから毎日仕入れに行かなあかんかった。京阪電車乗って、バス乗って松屋町の問屋まで行くんですな。プラモデルはかさばるから大変なんです。資金もないから、仕入れはいつも昨日の売上を持って行っとりました。

 せやから、「お前さん何買うねん?」とお店の子どもたちに何が売れるかは教えてもらっとりました。それを頭に入れて問屋に行くわけです。

――その頃は、売る側と買う側の距離が近かったのかも知れませんね。

■子どもたちの心を掴んだ採算度外視の販売方法とは?

――海洋堂を創業したときにセンムは子供時代だと思いますが、その頃まさに日本にプラモデルという娯楽が根付き始めた時代だったということなのでしょうか?

センム:
 たしかに当時、昭和40年頃のプラモデルいうのは、日本で流行りだした頃で“アメリカから来た最先端のおもちゃ”やったんですね。

館長:
 そもそも、僕らの家は長屋の一階からはじまって、それを二階にして一階の3分の2を掘って……。

創業当時の海洋堂店舗(写真提供:海洋堂)

――え? ……掘るというのはどういうことですか?

館長:
 一階に模型用のプールをこしらえたんです。そこで潜水艦やら戦艦を浮かべる。冬は、そのプールの上にコンパネ貼ってセメントの山やら谷を載っけて、そこにスイッチにつないだ100発くらいの爆竹を入れて砂をかけておくんです。

店舗内の水槽で遊ぶ子どもたち(写真提供:海洋堂)

センム:
 スイッチ入れたらボーン、ボーンとね(笑)! もう、店の中は砂だらけになるんですが、すごい迫力なんですよ。

――室内で爆竹ですか!?

センム:
 最初は一坪半のお店だったのが、戦艦を浮かべるプール作ったり、爆竹仕込んだ戦車のジオラマ作ったり、完成したプラモデルを飾る場所を作ったり……それからスロットカーのレーシング場を作ったりしてましたわ。
 それこそ毎月のように、家の中の様子が変わっていくわけ(笑)。僕が小学校2年生になったころには、10坪ぐらいの広さになって、うちの3分の2ぐらいがお店になってしもてました。

――当時のプラモデル屋さんでお店のなかにそんな面白そうなものが揃っていれば、子供心に嬉しかったんじゃないですか?

センム:
 ええ、息子の特権をフルに使って遊び場にしとりました。夜になってお店が閉まったら、潜水艦やらのプラモデルと一緒になってプールで泳いだりとか、好きなだけ戦車を走らしたりとか、最高の環境でプラモデルを楽しめる子供やったわけですよ。

――小学校のお友達も、「学校終わったらセンムんち行こうぜ!」みたいな感じだったのですか?

センム:
 まさにそうです。過去に海洋堂とコラボしたことのある、現代アーティストの村上隆さんが宮脇家を「オタクのハプスブルク家【※】」と言うたそうですが、子供の頃の僕はジャイアンとスネ夫が一緒になったような小学生でした。

※ハプスブルク家
十五世紀から第一次大戦後にかけて数世紀にわたり広大な領土と多様な民族を統治したヨーロッパの名門家。築いた財産と政界のつながりを生かして、質量ともに世界有数の芸術分野のコレクションを後世に残した。

――それは、想像しうる最高のガキ大将ですね(笑)。

センム:
 その頃、海洋堂ではお店でプラモデルを売るだけやなくて、子どもら集めてタミヤの工場見学バスツアーをやったりしとりました。こういうことをしたのも海洋堂が日本で初めてちゃうかな。

――もしかして、そのバスツアーって海洋堂さんの持ち出しで子どもたちを連れて行ってたのでしょうか?

センム:
 たしか……あれ、お金取ってへんよな?

館長:
 うん、取ってへん(笑)。

――では、完全にボランティアで子どもたちを連れて行っていたのですね。

館長:
 タミヤは子どもらにどんな土産を渡したんやった? どうせろくな土産くれへんねんけどな(笑)。

センム:
 「新製品のプラモくれるかな」ってみんなわくわくしてたら、くれたのが在庫になった売れ残りの、きったないプラモやって……。子供心に「何や、こんなんしかくれへんのか、ケチやなぁ」と思っとりました。これは別に書いてもろてもええけど(笑)。

――その感想は、あくまでもセンムが子供の頃に思ったこと、ということですよね(汗)。 

館長:
 そうして店を始めてから、3年目にしてようやく海洋堂という小さい模型屋が日本中の皆さんから知られるようになったんです。その頃3年間連続で、日本一タミヤの戦車を売ったんです。

センム:
 日本中に海洋堂の名前が広がってました。全国の模型屋さんが、お店の経営について話を聞きに来たりとかね。

――先程、子どもたちのリクエストに細かく応えて問屋から仕入れていたとお伺いしましたが、そういった丁寧な仕入れをすることでお店の売上は伸びていったということでしょうか?

館長:
 ええ、そうして絶えず売上げを拡大しとりました。商いというのは、ほんまはお金もうけが大事なんですけど……店にお金がちょっと貯まったら、先程言ったようにすぐに店を改装しとりました。

――普通は、お金は内部留保という形で残しておいて、売上の不振に耐えられるようにするのかと思うのですが……。

館長:
 いいや、改装する。

センム:
 そう、改装ですわ。

館長:
 お金がないときでも、先にお金を借りることができたら改装しとりました。

――単に、商品を売るだけではなく、子どもたちが海洋堂のファンになるような仕掛けがうまく作用したのかもしれませんね。

■良いニッパーがないなら作ってしまえ! 模型メーカーに先駆けたオリジナル工具の発売

――創業当初から常に右肩上がりで子どもたちに支持されていったということでしょうか?

館長:
 ところが、学習塾が流行りだした時分から母親は子どもらをみんなそこへやるわけです。海洋堂は学習塾の対極のようなものですから、母親たちは「模型屋へは行ったらいかん!」というわけですね。
 ぼくらは公民館で子どもらを相手に、模型の作り方を教えたりしとりましたからそんな母親たちとけんかするわけです(笑)。

海洋堂は、しばしば子どもたちを相手に模型教室を開いていた。(写真提供:海洋堂)

 プラモデル屋は子ども相手の商売ですから、子どもらが離れていったらもうお手上げです。
 ところが、子どもにプラモデルが売れなくなっていく一方で高度成長とともに、大きな模型を大人が買うようになっていっとることに気がついたんです。

――たしかに、高度経済成長は「余暇の時代だ」なんて言われていたようですし、大人が高価なプラモデルを買うようになっても不思議ではないですね。

館長:
 けれども、そういう変化を他の模型屋さんにどれだけ言っても誰も何もせえへんかった。「変化に対応せんと模型屋は商売にならんぞ!」と言うてもね。
 大人相手なら金はいくらでも出てくるから、いいものさえ作ったら金になるんちゃうかと。そやから、海洋堂は帆船模型に手を入れて、完成品を売るという商いをはじめたんです。

センム:
 アメリカのレベル社という模型メーカーが9800円で売っていた帆船模型を完成させて僕らは売りよったんですよ。

館長: 
 普段は本社に置いておるものですが……これが海洋堂が当時作っておった帆船模型の完成品「修羅」です。

市の展覧会でアート作品として入選した、帆船模型「修羅」。宮脇館長が自ら赤銅色で彩色しブロンズのような質感で表現されている。(写真提供:海洋堂)

――すごい……! プラモデルの完成品販売も知られるようになって来ていますがその頃から海洋堂は完成品販売に手を広げていたのですね。

館長:
 そうです。ところが、売り物になるような帆船模型を作るには、その時分には、良いニッパーがひとつもない! 帆船には、滑車やらマストやら細かい部品がいーっぱいあるのに、切ったり削ったりするのに良い工具がないんですわ。

 当時はニッパーだけでなくて、穴あけ用のピンバイスやらもなかったから歯医者さんの商売道具を使ったり、釣り道具を使ったりしておりました。せやから海洋堂で帆船模型用の道具を作ったんです。

海洋堂が開発した帆船模型用の工具(写真提供:海洋堂)

――帆船模型の組み立てには高度な技術が必要と聞いていますが……。たしかに、帆船模型のキットを買ったとしても道具がダメでは作りようがないですものね。

センム:
 当時は、まだプラモデル専用の工具もない時代でしたからね。

館長:
 良い工具を作るなんて、ほんまはメーカーがやらないかん仕事なんやけどね。「余計なことせんと模型の品物売ったらええから」という発想やね。ところが海洋堂の取り組みを見てか、しまいには他の模型メーカーもニッパーやら何やらまねして売り出しよった(笑)。
 その点、われわれは自分で作ってるからこそ、どんな道具が必要かがよーくわかっとりますから。

■プラモデルキットの完成品を高額販売! ビジネスの転換

――完成品販売は始めからビジネスとして軌道に乗ったのでしょうか?

館長:
 始めはそれほどお金も取れへんわけです……まあ、売値が20万円やったかな?

センム:
 そんなぐらいやったね。

――売値が20万円でも元の値段を知っていると十分高価格な気はしますが……そこから値段を上げる工夫をされたということでしょうか?

館長:
 帆船は絵画と一緒で、絵画にとっての額が帆船を載せる台なんですわ。絵もいい額作ってそこに入れると価値が違ってくるでしょう。そういうわけで、帆船の台には世界地図とかをあしらった銅板をこしらえて貼り付けるやら、色々工夫しとりました。すると、だんだん売れてくる。

――なるほど、そうして少しでも高級感を出そうと。

館長:
 初め10~20万円で売っとったものが、最後はもう80万円ぐらいの値段がつきよったんです!

――ええっ! 元が1万円くらいのキットが80倍の値段になったんですか? もはや、プラモデルというより芸術品の趣がありますね。

館長:
 完成品販売は、「プラモデルのアート化」として“アートプラ”というスローガンでやっておったんです。

――アート化……?

センム:
 父は物書きをしておったんで、いっつもスローガンやら旗印を立てるのが好きやったので当時そのようなことを言うておったわけです。1970年かな? 最初に海洋堂が取った商標登録が「アートプラ」という言葉です。
 先程ご紹介した帆船模型の「修羅」もそのスローガンの一環として市の展覧会に出品したものでした。

 プラモデルって、塗る色が指定されてるのがほとんどでしょう? たとえばゼロ戦の羽根は緑で車輪は黒でとか……。でも、アートプラでは塗る色は自由です。
 プラモデルは塗り絵じゃないということです。館長はよう言うてました「ゼロ戦は赤く塗れ!」って(笑)。

――たしかにアートなら作り方は自由、だとすればゼロ戦が赤色でもいいですもんね。

センム:
 「修羅」のように帆船をブロンズ風に塗ってもええんです。あるときは中国の青銅風に仕上げてみたり。土のイメージを出すなら焼き物風にしてみたり、陶器風にしてみたり。表現者として普通のプラモをアートにする“アートプラ”が造形物に対する海洋堂のスタイルだったわけなんですね。

館長:
 プラモデルのアート化、「アートプラ」という考え方は、色のことだけやないんです。
 模型が売れんようになっていくなかで、僕が模型メーカーの今井科学さんと協力して作った「ローマの軍船」いう帆船模型のシリーズやったら、帆柱やらの縮尺の正確さは全部排除した。プラモデルで当たり前やった精密さよりも、見たときの驚きをどちらかというと大事にしたんです。

海洋堂が今井科学と協力して開発した「ローマの軍船」(写真提供:海洋堂)

――杓子定規な精密さよりも、作るときの喜びや見たときの驚きを優先したというわけですね。以前、海洋堂が芸術家の岡本太郎さんの作品をフィギュア化した際に、センムが似たようなことをおっしゃっていたと記憶しています。

岡本太郎アートピース集(写真提供:海洋堂)

センム:
 はい、そうです。縮尺にとらわれないようにして、見たときのイメージや手に持ったときの手触りを優先するということはあります。

――そういったセンムのこだわりは、館長の背中を見て学ばれたことなのでしょうか?

センム:
 そういうことですね。リアルなディフォルメはいかにらしく作るかですから。たとえば、帆船模型なら、本来マストは縮小したら、すごく細くなります。けれど、そこの太さだけは何倍も大きくしてメリハリをつける。そんな絵画的な表現の要素を立体として表した模型がアートプラと言えるでしょうね。
 本来、絵だって宮崎駿が描く帆船と、手塚治虫が描く帆船ではもちろん違うでしょう。絵描きによってテーマは同じでも、絵はみんな違うわけです。

 「ローマの軍船」をプロデュースするときに毎日のように今井科学さんの技術部長なり営業部長がうちに来てました。館長が図面じゃなくって「こうやるべきだ」という指示を出して、それを反映させた商品というのが、今井科学が帆船模型をリリースするときのテーマやったわけなんです。
 そのあと、「ローマの軍船」で上手くいって「カタロニア船」、「ケベック船」とまでうまくいってたんやけど、今井科学さんからしたら、「海洋堂みたいな模型屋ごときにメーカーの企画をやられたくない」と考えてたみたいで、挑発されてもうて……僕らけんかっ早いんですぐけんかしてやめてしまいました(笑)。

一同:
 (笑)

館長: 
 あの頃は、模型業界を何とかせな! という思いで、とにかく新しいことを仕掛けました。
 僕ら海洋堂がアートプラいうて帆船模型をたくさん仕入れて売るもんやから、レベル社の社長が不思議がって日本に来られたんですよ。

センム:
 普通はそんな9800円もする帆船模型なんて1年に1隻売れたらええほうなんです。ずーっと棚の肥やしになるはずの商品が、海洋堂では完成品にして売るために、100でも200でも仕入れてましたからね。まぁ、おかしいわけですよ。「何で100個単位でこの店では売れてるんだ?」とね。

――アメリカからわざわざ視察に来ていただけたとあっては、海洋堂の代表として鼻高々だったのではないですか?

館長:
 鼻高々というより……やっぱり来ていただいたことがありがたかったね。
 その時分は、レベルの社長がまだ40代の若さで、彼は全面的に自社のプラモデル作りに関わっとった。もし彼が今まで生きとったら……プラモデルの人気はここまで落ちなかったと思う。

センム:
 レベルの社長はこれからというときに、1971年に早くして亡くなられました。それが、アメリカのプラモの衰退のひとつの要因やと思います。レベルの社長は帆船であろうが戦車であろうが飛行機であろうが博物館にあるようなものをどんどんプラモにしていく勢いがあったんですが、影響力のある社長が亡くなることで終わってしまったんですね……。


■お客さんだったガレージキット好きの少年が後の“エヴァ声優”に!

センム:
 今井科学さんもキャラクター物のシリーズを商品化している間は調子がよかったんですが、結局ブームが去ると経営は傾いていきました。いかにキャラクターもののブームは先が読めないか……。

 僕ら海洋堂はアートプラという概念で模型の新しい付加価値を作った。それは模型屋がプロフェッショナルとして完成品を売るという新しい取り組みです。アートプラを進めるために店舗とは別の家を借りて、模型の組み立て工房を始めたのがその頃かな。

――まさに、海洋堂が芸術品を生み出すアトリエを持ったということですね。先程からお話を伺っていると、単に模型という商品を売るだけでなく、業界全体を盛り上げる啓蒙活動のようなことに館長はご尽力されていた感じが伝わってきます。

センム:
 館長の場合はプラモを作るというよりも、模型で何か商売をするほうが好きなんですよ。エンターテインメントとして模型を楽しんでもらうということですね。先程も言いましたが、子どもらと遊んだり、神社の境内やら公民館でプラモ教室を開いたり、模型の楽しさを広げることに昔から取り組んでおりましたね。

館長:
 ええ。今でもそうですがやっぱり、模型を楽しんでもらうということが一番の基本にあることですからね。

センム:
 先程は、儲けが出たらすぐお店を改装すると言いましたが、同時に館長はすぐに本を作るんですよね。海洋堂の活動を盛り上げるために活字で自分たちのPRをしよりました。1965年からかな。『海洋』という模型屋としての会報誌を作ってお客さんに配ってました。「模型はこんなに楽しいですよ!」ってね。

 館長は、模型屋を始める前は物書きやってましたから、ひたすらスローガンとかキャッチフレーズが大好きなんです。常にそういうのを旗印にしていろんな作戦を実行していきました。

海洋堂が発行した会報誌『商いの手帖』『海洋』(写真提供:海洋堂)

 結局、模型業界はメーカーにしろ、小売屋さんにしろ、流通にしろ、海洋堂のように二代目がぶいぶいやってることは珍しいです。1970年代の頃は一つの小学校区に5、6軒ぐらい模型を取り扱ってる小売りがありましたけど、今では模型屋すらなくなってしまいました……。

館長:
 当時、ブームの頃は全国に1万軒くらい僕らみたいな、ちっさなプラモデル屋があったんです。それが波が引くように一瞬にして静まってしまいました。10年の間にプラモデルのかなり精巧な商品が作られても、世間には役に立たんものになってしまう。

――たしかに、今では家電量販店の隅っこにガンプラがちょっと置いてあるだけだったり……。それって、プラモデルに対抗する新しいおもちゃが日本で流行ったとか、プラモデル業界の外側に要因があったりするんですか?

センム:
 当時は、インベーダーゲームを皮切りにゲーム屋さんに全部押されて終わってしまったというのもあります。
 ゲームに押されてしまって、子どもたちは一切プラモには見向きもしなくなってしまいました。『サンダーバード』やガンプラとかあったけども、結局はみんな、テレビゲームの前には負けてしまった。

館長:
 しかし、そんな状況でもプラモデルを作り続けてる人間はいてて、既存のプラモデルに飽き足らん若い子たちが海洋堂へ集まってきたわけや。

センム:
 そうした流れを受けて80年代から始まったのが、ガレージキットという完成度に軸足を置いた新しい模型の商売というわけです。

――ガレージキットというものは、普通のプラモデルよりも精巧な模型ということなのでしょうか?

センム:

 たとえば、当時の怪獣のガレージキットは指の一本や二本、牙がないのは当たり前。「爪や棘は、プラスチックを削り出して自分で作れ」という感じでした。今の時代だったら、「こんな不良品売ってどうするんだ?」というやつを、「あとは自分で作れよ」というわけですね(笑)。
 当時のガレージキットは、そんな当時のプラモデルよりもはるかに上位表現性を持った模型だったんですよ。当時のプラモデルに満足できなかった人間が、自分たちの満足できるものを作るためにはじめたことだったんですね。100点ではないものを100点にしようとする。それは……ある種の意志ですよ。 

 きっかけは81年に、海洋堂によく来ていたお客さんのひとりで、歯科技工士の川口さんという方が「こんなん作ったんやけど」と、樹脂を使って作ったモスラの幼虫を持ってきたんです。当時の歯医者が使う樹脂ですから造形物を作るには硬くて使いにくいものでした。

 しかし、個人でも手に入れられるシリコンとレジンキャストを使えば、一つの完成品から複製が取れることがわかった。メーカーが作るような金型がなくても個人で複製を作ることができる。これが革命的なことやったんです。
 ちょうどそのときの海洋堂には、スロットレーシングのコースがあって、僕らは真空成型でレーシングカーのボディを作るなど、自分たちで成型する技術があったことも背景にありました。

――当時の海洋堂には、ガレージキットを始めようとする模型好きが集まりつつあったということでしょうか?

センム:
 市販されているプラモデルに飽き足らず、自分たちが欲しいものを作りたい。そういった人たちと一緒になって生み出すエネルギーが当時のガレージキット界隈にありました。お客さんと商店の関係でしたがある種、同志の感覚に似ていましたね。同志といえば、その頃のお客さんには、今ではエヴァの声優もやってる関智一さんもいはりました。

――えっ! 鈴原トウジの声をやってる関智一さん!? 関さんも海洋堂に通ってガレージキットを買ってたんですか?

センム:
 関さんは当時、中学生のお客さんでガレージキットの作り方をお店で教えてもらってましたよ。後に関さんが自分で原型を製作したフィギュアも販売するところまでいきました。

海洋堂本社に所蔵されている関智一氏が原型を製作したフィギュア『ウルトラマンレオ対ブラックギラス』。現在ではプレミアが付いている貴重な未開封品だ。(写真提供:海洋堂)

 関さんのように当時の中学生……小学生ぐらいの年齢の子供であっても、自分らが作りたいものを作りたい! というエネルギーがあったんでしょうね、ガンプラのブームも手伝って早熟な子がお店にはいっぱい来てました。そういう子たちも一緒になって創成期のガレージキットというジャンルを広めていったように思います。

 当時の海洋堂には、そういう才能を持つ者が集まってぐつぐつとしているような……ひたすら手を動かして物を作って、ガレージキットの発信地になりつつある感じがあったと思います。

■ワンフェスの「当日版権システム」は“ご厚意”で成立していた!

――そうしてガレージキットのブームが今のワンフェスにつながってくるわけですね。なぜいち模型屋だった海洋堂がワンフェスを運営するようになったのか、今日のインタビューではその経緯にも迫れればと思っていました。

東京都立産業貿易センター(現在の浜松町館)で行われていた頃のワンダーフェスティバルの様子(写真提供:海洋堂)

センム:
 別にワンフェスの運営を続けていることにロジカルな理屈はないんですよ。理屈ではなくパッションだけでやるのが館長のスタイルだし、海洋堂のスタイルなので。あほな熱量がまずは大事というね、どうせ賢くはなれんし。

――ロジカルな理由はない……とは言っても、ワンフェスからは単に商品を売るイベントというより、黎明期の模型業界の地位を向上させるために、館長がおこなってきたような普及啓発的な側面を感じます。

センム:
 そうですね……ワンフェスというのは、今はオタク評論家をしている岡田斗司夫と武田康廣がアニメ制作会社であるガイナックスを作る前、84年当時、彼らは日本で流行っていたSFブームのなかでゼネラルプロダクツというSFグッズのショップを大阪の桃谷で開いていました。

 海洋堂は模型の中でのSFキャラクターというものも扱っているということで、敵というほどでもないがライバルというか……お客さんが被るところはあったわけなんですよ。そこでゼネプロの彼らがやってきて、海洋堂からは館長と僕と、ゼネプロからは岡田と武田が顔を合わせて手打ち式みたいなものをやったんです。

――手打ち式……昨今、なかなか聞かない単語ですね。

センム:
 「ワンフェスというものをやりましょう」と発案したのは、ゼネプロの彼らだったんですよ。彼らが主催して1991年までやって、「あとは海洋堂さん、全部あげるから引き継いでください」ってことで僕らにくれたのが今に至るまでの流れでした。

――「くれた」と言っても海洋堂は物作りの会社ですよね? ワンフェスのイベント運営はまったく畑が違うわけで、そこには苦労があったのではないでしょうか?

センム:
 むっちゃくちゃ難しかった! 僕らはイベント屋でも何でもなかったからね。
 ただ……ゼネプロさんに「もし海洋堂さんがワンフェス引き受けんかったら……他の模型メーカーさんに持ってかれてまいますよ?」と脅し文句を言われてしまって。「そらまぁ、嫌ですなぁ……。じゃあ、うちやりますわ!」となったわけです。

一同:
 (笑)

――ワンフェスでは「当日版権システム【※】」がありますよね? それを始めに構築したのは当時のゼネプロだと思いますが……「一日だけだから許してよ」という、義理人情のようなシステムがなぜ今日にも生きているのでしょうか?

※当日版権システム
簡易的なアマチュア向け商品化許諾制度。この制度はガレージキット展示即売会に特有のものであり、通常の企業間で行なわれる商品化の許諾プロセスとは異なり、手続きは大幅に簡略化されている。

センム:
 とりあえず、その当時からすごくグレーゾーンで、メーカーのご厚意の上に成り立ってるものでした。なので、ライセンシングビジネスが成り立ってる大手メーカー、それこそいちいち名前を挙げたらえらいことになりそうなちゃんとしたところ(笑)は、なかなか厳しいけども、「当日版権システム」はそもそものスタートがそういう曖昧なところから始まって奇跡的にずっと続いているものです。
 なぜそんなことが実現できたかというと……そこは海洋堂が企業らしくなかったからかな、と。

――「企業らしくなかった」というと?

センム:
 ゼネプロもそうでしたが、海洋堂もビジネスというよりも心意気でやってる部分がワンフェスにはあります。そして、それにみんなが賛同してくれているというか。

 言ってみれば、出版社やメーカーにとっても、自分たちが作ったキャラクターや商品を、出展者はファン活動としてフィギュアにしているということはわかっているわけです。
 だから、そこはぎりぎりのところでメーカーと出展者の関係が成り立っているわけです。そこに、ビジネスライクなきちんとしたものを持ってくるのは今後も難しいでしょうね。

――なるほど、海洋堂が心意気でワンフェスを運営していることが、権利を保有する側からも理解を得られていることに一役買ってきたのでは、ということですね。

センム:
 だからこそ、僕がワンフェスの実行委員長として目が黒いうちは、まだそういう縁日みたいなことはやれるかなと。
 そのうち、運営の形態は変わってくるとは思います。おそらく今よりももっとビジネスライクなものにはなるでしょうが、僕が実行委員長として浪花節でやっている間は海洋堂の理念としてそこは大事にしていこうと思ってます。

 そもそも別に、ワンフェスに私利私欲はないのですわ。もともとええ豪邸みたいなところで生活をしたいとか、あんまりそういう気持ちはなくて、そこそこでかい家はコレクションのプラモの置物ハウスになっておるし……ゴージャスな時計もないし……。

――たしかに、これでセンムがランボルギーニとかに乗ってたら裏切られたような気持ちになりますね。

センム:
 けど、88ミリ砲やら、ケッテンクラート乗り回してるけどね!

――それは、逆にいいですね!

センム:
 たしかに、これがランボルギーニとかフェラーリとかポルシェに乗ってるような人間やったら悲しいですよね(笑)。

――当時、グレーゾーンなところで、いち小売店だった海洋堂がワンフェスを主催するようになったことで、同業者からの僻みのようなものはあったりしませんでしたか?

センム:
 僕は模型を作って楽しんでるのが好きなんです。ワンフェスは自分の好きな場所やから、別にそれが苦労とか、そういうものは思わないですね。
 それに、正義を行えば、世界の半分は敵に回すもんだと思うんです。でも残りの半分は強烈な味方になるというのも、よくある話。館長が、模型業界で今に至るまでずーっと周りを敵に回しつづけたように(笑)。

 館長は一匹オオカミなんですよ。だから常に利用されてしまうし、周りが敵ばっかり。でも、そのほうが戦闘民族みたいで、楽しいじゃないですか。

――館長、息子さんは「海洋堂は戦闘民族だ」とおっしゃってますけども?

館長:
 ハッハッハ! まあ、そのとおりやと思う。
 僕自身、何かひとつの枠の中に入っていたら、これまで海洋堂がやってきたようなことは、絶対にできないですから。

■50年前に交わされた子どもたちとの約束と海洋堂を貫く「ものづくり精神」

――“海洋堂の若旦那”であったセンムがガレージキットやワンフェスへと飛び込んで行き、徐々にセンムに会社の経営が移っていくなかで、館長にはホビーランドの構想が生まれていった、ということでしょうか?

館長:
 いやいや、50年ほど前に海洋堂がまだちっちゃなプラモデル屋やったときから、僕は店の子どもらに「ホビーランドを作るぞ!」とデタラメなホラ吹いとったわけ(笑)。そのホラが50年経ってようやく形になったんやね。
 今思えばホラというか……夢ですかね。三十過ぎた哀れな男が、子ども相手に本当に小さなプラモ屋をしとる時分でしたから。

――館長は、子どもたちとの約束を果たしたわけですね。

センム:
 これまでにも、東京の茅場町や渋谷にギャラリーを出したり、高知県に博物館やミュージアムを作ったりはしておったんですよ。それが去年の2月ぐらいに館長が急に「ホビーランドを作る!」って言い出して。

 そもそもは、館長がおととしの10月に中国の故宮博物院へ行ったとき「こんなのに負けるか!」となってしまって。帰った瞬間に、うちの全社員を本社の会議室に集めて「お前らに迷惑かけるつもりはないけど、これから海洋堂本社を博物館にする。だから年内には出ていって社屋を空っぽにしろ。仕事はどっかで勝手にやってくれ」と(笑)。

一同:
 (爆笑)

――子どもたちとの約束を守るためとはいえ、完全に暴君じゃないですか。めちゃくちゃだ(笑)! 

センム:
 ほんまに社屋を博物館にするつもりで、お客さんが来るときの駐車場や交通機関の相談を門真市にしてたんですよ。
 このイズミヤの3階は、当初博物館の倉庫として使うために門真市と話を進めておったんですが、館長が下見に来たときに広さに感動して「ここにランドを作るぞ!」とコロッと方針が変わって……社屋から出ていってくれと言ってから1ヶ月で言うことが変わったわけです。

――では、たまたまイズミヤのテナントが空いてたから、社屋から出ていかなくて済んだということですね。

館長:
 ホビーランドをやるのに、人手が必要やったからワンフェスで「志のあるやつは館長のとこへ集まれ!」とビラを撒いたんです。

センム:
 労働内容も雇用条件も一切書かれていないビラでしたが……。

ワンダーフェスティバルで配布された海洋堂ホビーランド人員募集のビラ。業務内容と雇用条件の詳細は一切書かれていない。

館長:
 そしたら、そのビラを読んだ者で働き出しとる者が今二人ほどいてます。ひとりは50歳くらいやったかな、もうひとりは32歳で東京藝大行っとったとかで、なかなか絵もうまく描きよります。あとはパートの方が3人。それだけで今ホビーランドの準備は進めよるんです。

――ビラに共鳴した人がいたんですね。

センム: 
 これからオープンに向けて最後の仕上げですが、まあ、そのときはもう海洋堂の関係者に国家総動員法が発令されて、全員で飾り付けを手伝う予定ですわ。

館長:
 今までにも、海洋堂の博物館や、ミュージアム的なものは四万十にも長浜にも作ってますから、それと似たようなものじゃあ面白くないと思てましてね。この「館長の部屋」に展示されたものにも、一つ一つに物語があるんです。

 たとえば、あなたの後ろにあるこの木の根っこは、ここに来るまでにどのぐらいの年月がかかったと思います?

――うーん、これだけ大きな木が育つだけでも、少なくとも100年いや、200年くらいかかるでしょうし……埋まってた期間を含めると300年くらいでしょうか?

館長:
 この根っこは1100年、土の中に埋まってたんです!それが、今僕んところに来とるわけやね。

 では、なぜそんな1100年も埋まっとった根っこをここに置こうと考えたか? 1100年も自然の中にあって、風やら雨に打たれて耐えて今まで生きてきた、それがここに形をもってある。海洋堂はこれまでにいろんなものを作ってますが、それは物作りの一番大事なことで、ぼくらは見習わないかんのと違うかなと。恐らく、これを見た子どもが1100年経って自分の目の前にあることを知ったら、感動するんちゃうかな。

 他には、この石。僕は東北の震災のあとに、海洋堂に来た子どもらを10人ぐらい連れて東北を回ったんです。そしたら、気仙沼のがらくたの中にこれがぽつんとあったんです。

――こんなきれいな石が……。

館長:
 恐らくどっかの家がつぶれて、落ちたんやと思うけど。これだけ、うまいこと何も傷もつかんと、こんな形でぽーんとありました。

 そして、これが10日ほど前に四万十から持ってきた、明治時代に作られた木彫りのエンコウの像です。とある酒屋の奥さんがこれを寄贈してくれたので飾っています。

――エンコウ?

センム: 
 猿猴(えんこう)です。高知県の四万十に伝わる妖怪で、これがかっぱ伝説につながっていったと言われていますけどね。高知では、かっぱのことをエンコウと言うんです。

館長:
 これが今日のかっぱの原型なんです。皆さんに言いたいのは、これが物作りの究極なんです。

――どういうことでしょうか?

館長:
 ガレージキットであろうが、この根っこ一つでも、“作る者”が目指す究極は一緒なんです。木の根っこや石を見て、誰もこれを作られた物と思わへんけど、「自然が作った」と思うたら尊敬せないかんでしょう? 作られた物には、どんなもんでも尊敬すべきところがある、とね。

――なるほどつまり……自然が形作った石とか木や、職人が作った帆船模型やガレージキット、木彫りのかっぱも同じ価値がある、と。そうした感覚が、カプセルQの生物フィギュア【※】のヒットにつながっている気がします。

※カプセルQの生物フィギュア
1999年にフルタ製菓『チョコエッグ』の食玩として始まったシリーズ。後に『チョコQ』、『カプセルQ』と名称をあらため、様々な動物フィギュアが商品化され食玩ブームの火付け役となった。(写真提供:海洋堂)

センム: 
 カプセルQの生物フィギュアの成功は本当にロジックでなく、パッション……偶然でした。ヒット商品なんてのはマーケティングできるわけないので。
 「お菓子のおまけで精密な模型を入れてみたらどうだろう?」というアイディアが生まれたところに動物を得意とする松村しのぶという造形作家の存在があったり、海洋堂が中国の工場と関係を持ったところだったり……。

 館長の模型・造形物に対するこだわりや、精密なミニチュアでも満足できず、すごいモンが欲しい! という気持ち……宗教論を持つわけやないですが、一生懸命に動いていると、本当に棚からぼた餅で何か落ちてくる。それは計算とか考えたりしてやってるわけじゃないんです。
 すべては偶然に偶然が重なって必然になったおかげ。何もかもやり続けなければ、これまでの様々なものは手に入れられなかったわけですから。すべては結果オーライといったもの全部がくっついて今の海洋堂になっているわけです。今回の海洋堂ホビーランドでは、そういった海洋堂のすべてを皆さんに見せるという意味でもあります。

館長:
 今度のホビーランドは、関係者からすでに反応がきております。

 猿猴(えんこう)の像を送ってくださった方のご家族のように、僕と同じような世代の人間はいろんなもんを押入れに仕舞いこんどるわけですな。
 「送ってきてくれたら展示します」と僕が言うたら、日本中からホビーランドにいろんなもんがどっさりくるんと違うかな? 僕に言わせれば、自分が大事にしているものを押入れなんかに置くなよと、人に見せんようにするよりも、ここでみんなに見せたらどうや? とね。
 押入れの中へひっそり置いて、自分に自慢するのもええんねんけど、それを皆さんに見せたらどんなに価値があるか。 

ホビーランドには、恐竜・ティラノサウルスとトリケラトプスの実物大頭部レプリカが展示されている。これは、宮脇館長と40年以上親交のある、映画『グレムリン』などの特殊メイクを担当し、アカデミー賞を受賞したクリス・ウェイラス氏から93年に特別に贈られたものであり、海洋堂はそれを誰もが鑑賞できるようにと、寄贈以来社屋の屋根に飾り続けた。

――たしかに、せっかくの自慢の一品なら人に見せて反応を見てみたくなる気もします。

センム: 
 僕ら海洋堂の人間は、木の根っこであろうが石であろうが、すごくいいディティールだったり色合いを持っていると、やっぱり見るだけで心が震えますからね。そうして集めて飾っていくうちにこんな部屋が出来上がる(笑)。

 ここホビーランドは海洋堂が作ったものと館長が集めたもの、つまり自分らが好きだと思った「作られし物」が集まっている場所ですから。これだけの規模で展示をできる模型メーカーは、そうそうないと自負しています。

■ホビーランドは、ぜんぜん集大成じゃなかった!

――館長は「ホビーランドの設立」という子どもたちとの50年越しの約束を果たした今、これからはホビーランドの運営に集中して海洋堂の将来は息子さんをはじめ後進に任せていくおつもりなのでしょうか?

館長:
 いいえ! ホビーランドはまだ始まりですから。僕が今、93歳やから「ホビーランドは始まりや」と言うたらみんなが笑うでしょうが、今度のホビーランドがうまいこといくのは、これは確実やと思うてる。それはもう、これだけのもんをこしらえたんやから、皆さんが驚くでしょう。

 そしたら今度は、故郷の高知へ行って「かっぱランド」いう博物館をこしらえよう思てます。その「かっぱランド」の予定地から4キロくらいのところに馬之助神社という神社があるんですが、そこをもっとすごい神社にしたろうと……で、それらをつなぐ鉄道も走らせてホテルもでーんとこしらえて……。おそらく、本格的なディズニーランドに近いものになると思う。

センム: 
 ……。

――なるほど鉄道とホテルですか……とりあえず館長は、ホビーランドの完成後も引退するつもりは?

センム: 
 まったくないでしょうな。館長にとってホビーランドは次のためのステップですから。ウォルト・ディズニーが1966年に亡くなってから今でもディズニーってブランドが残ってます。館長が海洋堂やホビーランドのような施設を作ってあとに残す。
 後の世に少しでもそういうエネルギーが残れば、それがわれわれの価値やし、ご紹介した木の根っこと同じで、引き継いでいく誰かが現れてくれれば、それでいいのです。

――ということは、この海洋堂ホビーランドは集大成というよりも……。

センム: 
 これからまだあるんだということですね。ほんまに、館長は終わらへんのですよ(笑)。

[了]


 子どもたちの心を掴む店づくり、アートプラの提唱と完成品販売、模型業界の常識にとらわれないテーマのオリジナル商品の展開、ビジネスよりも心意気を優先するワンフェス、そして集大成であり次なるステップでもあるホビーランド……。

 宮脇修館長、宮脇修一専務の両名が語る海洋堂のエピソードに、取材中は終始圧倒されるばかりだった。

 しかし、海洋堂は決して順風満帆な道を歩んできたわけではない。
 本記事では語られることはなかったが、過去に宮脇修氏は自身の著作のなかで、会社の資金繰りに奔走するなか、そんな状況で自身の店を中学校を出たばかりの息子に継がせることへの葛藤を綴っている。

 宮脇父子は自身を“戦闘民族”だと言う。好きだと思ったもので“商い”をする人生は、文字通り戦いの連続だったのではと思う。

 「自分が大事にしているものを押入れなんかに置くなよ」

 “形”が持つ美しさに魅せられて、ひたすらそれに殉じてきた宮脇修氏の言葉が何度も頭をよぎった取材の帰り道だった。

■info

・宮脇センムの解説と共に、海洋堂ホビーランドを巡る生中継は6月26日19時から! 

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