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「愛の讃歌」シャンソン女王・越路吹雪が今年生誕100年 パリ五輪7月開幕で再注目に

日刊スポーツ / 2024年6月15日 9時10分

熱唱する越路吹雪(63年12月31日)

<ニュースの教科書>

シャンソンの女王といわれた越路吹雪が今年、生誕100年を迎えた。タカラジェンヌから、不世出のエンターテイナーとして活躍した。盟友・岩谷時子が日本語詞を書いた「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」「ろくでなし」などは、今も歌い継がれている。7月26日には、シャンソンのふるさとフランスでパリ・オリンピック(五輪)が開幕する。シャンソンと越路吹雪が、再注目されている。(敬称略)【笹森文彦】

    ◇    ◇    ◇  

21年8月8日、東京五輪の閉会式。満員の国立競技場で、milet(ミレイ)が「愛の讃歌」を日本語とフランス語で歌い上げた。日本語は越路吹雪が歌った歌詞。次期開催国フランスへ、シャンソンの名曲「愛の讃歌」でバトンがつながれた。

それから3年後のパリ五輪の年に、越路は生誕100年を迎えた。くしくもパリ五輪は、越路が生まれた1924年(大13)以来、100年ぶり3回目となる(1回目は1900年)。偶然とは思えない巡り合わせで、越路とシャンソンが再注目されている。

シャンソンはフランス語で「歌」の意味。喜怒哀楽や情景を詩的な歌詞と美しいメロディーで歌う。いわばフランスの大衆歌である。それを日本に根付かせた越路の人生を、ダイジェストで振り返る。

◆越路吹雪誕生

24年2月18日に東京で生まれた。本名は河野美保子で、愛称コーちゃんの由来。父の転勤で、豪雪の新潟県に転居した。歌好きで、父の勧めで37年に宝塚音楽歌劇学校(現・宝塚音楽学校)に入学。越後(新潟)などに通じる北陸道の「越路」と、土地柄の「吹雪」から父が芸名を考えた。

◆国産ミュージカル女優第1号

39年に宝塚歌劇団に入団。戦時下を経て、戦後は解禁されたジャズやシャンソンをスケール感ある表現力で歌い、花組男役のトップスターとなった。数多くの映画にも出演した。51年2月に日本初のミュージカル「モルガンお雪」に主演。日本初のミュージカル女優となった。

◆盟友・岩谷時子との運命の出会い

岩谷は39年に神戸女学院大英文科を卒業して、宝塚歌劇団出版部に就職した。当時15歳の越路が編集部に来て、岩谷に「サインって、どう書けばいいの」と聞き、親しくなった。越路が51年7月に宝塚を退団し、東宝に所属する際、岩谷も退職。マネジャー兼訳詞家として、数々のヒット曲を生んだ。越路が死去するまで約30年間、二人三脚で歩んだ。

◆代役<1>=紅白初出場

52年1月3日の第2回NHK紅白歌合戦(当時は正月にラジオ放送)で、紅組の松島詩子が会場に向かう途中に、交通事故に遭った。NHKは急きょ、家で正月を満喫していた越路に出演を要請。越路はほろ酔いだったが、自身が日本で初めてカバーしたジャズ「ビギン・ザ・ビギン」を見事に披露した。以後、出演辞退するまで14年連続15回出場した。

◆代役<2>=代表曲「愛の讃歌」誕生

52年9月、日劇のシャンソンショーに出演予定だった二葉あき子が、喉の不調で辞退した。音楽監督の作曲家・黛敏郎が越路に出演を依頼し、フランスの人気シャンソン歌手エディット・ピアフの名曲「愛の讃歌」を歌うよう勧めた。岩谷が急きょ日本語詞をつけた。原曲は道ならぬ恋を「あなたが愛してくれるなら、祖国も友人も捨てる」と歌うが、岩谷は「あなたの燃える手で…」と普遍的な愛に訳詞。越路の代表曲となった。

◆カエル・蟹・虎

「愛の讃歌」がヒットした越路は「本場のシャンソンを勉強したい」と、53年春に単身パリに向かった。ピアフの生歌を聴いて「井の中の蛙(かわず)のうぬぼれが、パリという海で、ペシャンコになった」「私は(見かけ倒しで中身がないという意味の)月夜の蟹(かに)だ」と嘆いた。以後、より精進し、ニッポン・シャンソンの女王に駆け上がっていく。そんな越路は意外にも極度のあがり症だった。舞台に出る前に、岩谷が越路の背中に「虎」と書き、「あなたは虎。心配しないで虎になってらっしゃい」と送り出したという。

◆作家三島由紀夫

越路の熱烈なファンを自認。61年に朝日新聞に寄せた「現代女優論-越路吹雪」では「越路さんが、依然として強い人気を維持しているのは、西洋的豪華さとお茶づけ的哀愁と、豊麗な女性的魅力とスッキリした男性的魅力と、そういう相反するものをそなえたスターが他にいないからである」と分析している。

◆「恋の季節」のモデル

恋多き越路は海外の音楽祭で、フランス人男性から「明日、朝早く2人でコーヒーを飲もう」と言われたことがあった。一夜を共に、という誘いだ。実現しなかったが、それを聞いた岩谷が作詞したのが大ヒット曲「恋の季節」(68年、ピンキーとキラーズ)。

<歌詞>夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと あの人が云った 恋の季節よ

越路は岩谷のことを「恋泥棒だ。私の恋を見ては歌を作る」と言ったという。

越路は80年11月7日、胃がんのため56歳という若さで死去した。最期の言葉は「いっぱい恋もしたし、おいしいものを食べたし、歌も歌ったし、もういいわ」だったという。その歌は、今も生き続けている。

【参考文献】▼「聞書き越路吹雪 その愛と歌と死」(江森陽弘著、朝日新聞社)▼「歌に恋して 評伝岩谷時子物語」(田家秀樹著、ランダムハウス講談社)▼「夢の中に君がいる」(越路吹雪・岩谷時子共著、講談社)

■「衣装展」や特集番組

越路に関するイベントや番組も多い。「生誕100年 越路吹雪衣装展」が4月末から8月4日まで、東京・新宿区の早稲田大学演劇博物館で開催されている(休館日あり)。越路はファッションにこだわり、リサイタルではイブ・サンローランやニナ・リッチなどのオートクチュール(高級仕立服)を着用した。ドレスのほか、アクセサリー類も展示されている。

BS朝日では6月30日に「ニッポン・シャンソン~越路吹雪・銀巴里…歌い継がれる愛の讃歌~」(午後9時)を放送する。同局によると、BS民放初の日本のシャンソンに特化した番組で、クミコ、松村雄基、安蘭けいらが出演する。

■伝説リサイタル8枚組

生誕100年の記念CD8枚組BOX「越路吹雪リサイタル1965~1969」(税別2万1000円)が12日に、発売された。

越路は東京・日生劇場で、65年から80年の足かけ16年にわたり、実に計506回のリサイタルを開催した。69年からは1カ月公演となり、毎回満員という伝説のリサイタルである。

リサイタルはほぼLPレコード化されていたが、偉業を後世に伝えるべく、高音質のCDで復刻された。今回は全盛期ともいえる1960年代のリサイタル5回を収録した。曲数はメドレーも含め延べ120曲以上。「愛の讃歌」は計5曲収録されており、表現の違いを堪能できる。

寺山修司作詞の「かみ」「ゆび」、永六輔作詞の「おへそ」など、「女体」をテーマとしたオリジナル曲も聴きどころだ。ボーナストラックとして、60年代に紅白歌合戦で歌った8曲が収録されている。

越路は舞台に上がる日時から逆算し、起床や食事、劇場入りの時間などを設定。さらに何キロ体重を増やすか、など舞台のために日常を過ごした。汗びっしょりで歌う、その姿勢や息遣いまで聞こえてくる。

制作を担当したユニバーサルミュージック合同会社の星野広繁氏は「歌詞の裏側までも伝わる表現力に圧倒されます。パリ五輪と重なって、越路さんをあらためて聴いていただく機会になれば」と語っている。

BOXには復刻パンフレットなども封入される。

■生誕100年の芸能人・文化人

今年、生誕100年の芸能人・文化人は数多い。高峰秀子は、昨年から生誕100年プロジェクトが組まれ、上映会などが開催されている。淡島千景、鶴田浩二らも出演映画がCSなどで特集されている。越路と乙羽信子は宝塚で同期生。春日八郎は第20回NHK紅白歌合戦(69年)で、越路の対戦相手だった。

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