「峠の釜めし」は、なぜ人気になったのか?
ニッポン放送 NEWS ONLINE / 2024年2月16日 11時55分
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
昔、駅弁が売れた駅の1つに、「機関車の連結がある駅」というものがありました。とくに蒸気機関車の時代は、峠越えの前に補助機関車を連結するため、停車時間が長くなり、駅弁がよく売れたわけです。碓氷峠の麓にある信越本線・横川駅も、その1つですが、歴史を紐解くと、「峠の釜めし」という大ヒット駅弁に恵まれるまでには、さまざまな苦悩と努力があったといいます。
「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第48弾・荻野屋編(第3回/全6回)
1kmの間にビル20階相当を登る「66.7パーミル」という急勾配が立ちはだかってきた信越本線の碓氷峠。峠越えを前に補助機関車の連結・解結が行われたのが横川駅でした。この補助機関車の拠点だった横川機関区の跡は、いま「碓氷峠鉄道文化むら」として、ゆかりのある車両が数多く保存されているほか、「峠のシェルパ」と呼ばれたEF63形電気機関車の運転体験(講習受講が必要)ができることでも知られています。
横川駅でこの補助機関車を連結する「4分」の停車時間に販売されて人気を博してきた名物駅弁「峠の釜めし」。この駅弁を開発したのが、荻野屋4代目の髙見澤みねじ社長でした。現在の6代目・髙見澤志和社長は、お客様に対してとても真摯な人だった、家で遊んでいるときでもお客様に迷惑をかけるようなことがあると、厳しく叱られた記憶があると話します。今回はそんなお祖母様のエピソードと釜めしの誕生秘話を伺いました。
●「峠の釜めし」を生んだ、髙見澤みねじ・田中トモミ姉妹!
―4代目の髙見澤みねじ社長は、どのような方でしたか?
髙見澤:山梨・丹波山村出身で大妻女子大学の前身となる学校を出て、栄養士の資格を持っていました。晩年は寝たきりのことも多かったですが、(孫ということもあって)私自身は優しくしてもらったものです。3代目が若くして亡くなり、4代目として社長に就任したのですが、幼いころから体が弱かったこともあり、東京で体育教師をしていた妹の田中トモミが来て、一緒に経営を担うことになったんです。
―当時の荻野屋は、経営が厳しかったそうですが、なぜですか?
髙見澤:高崎と軽井沢という大きな駅に挟まれていたのが1つの理由です。当時の弁当は、幕の内弁当など普通弁当ばかりで、(他の駅と)あまり変わり映えがしなかったこともあります。横川の停車時間に(主に団体客向けに)積み込む弁当も、他の業者のものが用命されることすらあったといいます。加えて、戦前は旅館利用者も多かったのですが、戦後は人の流れが変わってしまい、旅館業も厳しくなってしまっていました。
●「温かい家庭的な弁当」を作りたい!
―なぜ、「峠の釜めし」を開発することになりましたか?
髙見澤:みねじが社長に就任して帳簿を確認すると、経営的に非常に厳しいことがわかったんです。そこで「売れる弁当(お客様が受け入れて下さる弁当)」を作ろうとなりました。まず、駅を利用されるお客様に、実際にどんな弁当を食べたいか、毎日聞いて回ったといいます。これでわかったのが「冷たい弁当は飽きた」ということ、そして「温かい家庭的な弁当を食べたい」という声が、1つの大きなヒントになったといいます。
―なぜ、益子焼の釜になったんですか?
髙見澤:開発のヒントになったのは「土産になる」という要素でした。やはり、旅ですから、土産は重要です。女性のみねじは、陶器などの小物が好きな一面もありました。そんな折、栃木・益子の業者が、弊社に益子焼の営業に来たんです。当時から弊社ではそば店をやっていたので、益子焼の蕎麦猪口などを扱っていました。その業者がたまたま売れ残りの釜型の容器を持っていたことから、「釜めし」というヒントが生まれました。
●文芸春秋のコラムから人気に火が点いた「峠の釜めし」!
―昭和33(1958)年2月1日というタイミングで、「峠の釜めし」が発売された理由は?
髙見澤:国鉄高崎鉄道管理局(当時)の販売許可が下りたのが、この日だったようです。じつは数年前に開発されていて、先行販売もしていたのですが、容器の重さや価格の高さがネックになって、なかなか許可が下りませんでした。当時、幕の内弁当が80円でしたから120円はかなり高い弁当だったんです。でも、弊社の努力を見ていた横川駅長さんも、高崎局に掛け合って下さったこともあり、正式に発売にこぎつけることができました。
―発売後のお客様の反響はいかがでしたか?
髙見澤:直後はあまり売れなかったといいます。しかし、その年の8月、文芸春秋のコラムで「峠の釜めし」が取り上げられたことがきっかけで人気に火が点きました。売れ始めたのも、上野から来る下り列車からなんです。売り子さんも事情がよくわからず、「やけに今日は下り列車で釜めしが売れるなぁ」といった感想を持ったといいます。秋には富山国体へ行幸された昭和天皇が、御用列車で「峠の釜めし」をお召し上がりになりました。
昭和33(1958)年の発売以来、人気を博してきた「峠の釜めし」。益子焼の釜が土産になる上、ごみの減量につながることから国鉄の評判も良かったといいます。いまのSDGsにもつながるような取り組みでもあった陶器製の釜ですが、時代の変化と共にお客様から「釜が重い、持ち運びが大変」という声をいただくことが増えて、平成25(2013)年からは、「峠の釜めし(パルプモールド容器)」(1200円)も併売されています。
【おしながき】
・味付けご飯(コシヒカリ、醤油、昆布だし)
・鶏肉煮
・筍煮
・椎茸煮
・牛蒡煮
・うずらの卵
・グリンピース
・栗甘露煮
・あんず
・紅生姜
・香の物
とくに女性のお客様の声に応えて生まれたという「峠の釜めし(パルプモールド容器)」。約4年の開発期間を経て登場し、平成25年の経済産業省のグッドデザイン賞を受賞しました。私も先日、東京・有楽町の「荻野屋 弦」でイートインを楽しみながら「峠の釜めし」を買い求めていく方を観察していましたら、男性は益子焼の釜、女性の方はパルプモールド容器の釜めしと、見事にくっきりと分かれていたのが印象的でした。
東京と信州を結ぶ特急・急行列車には、碓氷峠の機関車と協調運転可能な車両が開発されました。しなの鉄道・坂城駅に保存されている169系電車は、昭和43(1968)年のデビュー。その前年には、髙見澤みねじと田中トモミ姉妹を描いたドラマ『釜めし夫婦』が、フジテレビ系で放映され、峠の釜めしの人気は全国区になっていきました。テレビドラマを見て、この車両で窓から釜めしを買い求めた思い出のある方も、きっといることでしょうね。
連載情報
ライター望月の駅弁膝栗毛
「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!
著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/
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