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名物がないなら作ればいい ~横浜名物「シウマイ」を生んだ、崎陽軒・初代、野並茂吉の精神とは?

ニッポン放送 NEWS ONLINE / 2024年3月30日 11時55分

名物がないなら作ればいい ~横浜名物「シウマイ」を生んだ、崎陽軒・初代、野並茂吉の精神とは?

【ライター望月の駅弁膝栗毛】
「駅弁」食べ歩き20年・5000個の放送作家・ライター望月が、自分の足で現地へ足を運びながら名作・新作合わせて、「いま味わうべき駅弁」をご紹介します。
横濱チャーハン

横濱チャーハン

私は15年間ほど、“あなたのまちの小自慢・プチ自慢”というテーマでおたよりを募集して、紹介するラジオ番組の構成を担当していました。“私のまちには何もない“とは言わずに、自分が暮らすまちのいいところを探してもらうのが趣旨でした。いまからおよそ100年前、関東大震災から復興を目指す横浜のまちで、誇りを持てる名物を作ろうと奔走していた駅弁屋さんもまた、横浜のいいところを探して回っていたのかもしれません。

E257系電車・特急「踊り子」、東海道本線・横浜~戸塚間

E257系電車・特急「踊り子」、東海道本線・横浜~戸塚間

「駅弁屋さんの厨房ですよ!」第50弾・崎陽軒編(第3回/全6回)

横浜市保土ヶ谷区と戸塚区の境には、東海道本線の清水谷戸(しみずやと)トンネルがあります。この上り線は明治20(1887)年に造られた現役最古の鉄道トンネルで、いまも東海道本線の列車が走り抜けていきます。ちなみに伊豆急下田行の「踊り子」号が飛び出してきた下り線は、明治31(1898)年の開通。こちらも125年以上の歴史があります。東海道本線、横浜駅の歴史は、日本の鉄道史そのものといっても過言ではありません。

株式会社崎陽軒・野並晃 代表取締役社長

株式会社崎陽軒・野並晃 代表取締役社長

今や横浜の名物といえば、何といっても「シウマイ」です。「シウマイ」という言葉を見たり聞いたりしただけで、何となくおいしい香りが頭のなかに広がります。この「シウマイ」は、いかにして横浜名物になっていったのでしょうか。横浜駅の鉄道構内営業から生まれた株式会社崎陽軒の4代目、野並晃代表取締役社長にお話を伺っています。

横浜中華街(朝陽門、正面に崎陽軒の「シウマイBAR」が見える)

横浜中華街(朝陽門、正面に崎陽軒の「シウマイBAR」が見える)

●中華街を歩き回ってたどり着いた「シウマイ」

―昭和3(1928)年、関東大震災からの復興のなかで、横浜駅は再び移転して、いまの場所が3代目横浜駅となりました。この年、崎陽軒では「シウマイ」を発売したんですね。

野並:横浜駅は東京駅から近くて、構内営業にはあまり適した駅ではありませんでした。加えて、横浜は新しいまちでしたので、これといった名物もありませんでした。“当たり前のもの”ばかりを売っても、土産物としての特徴もありません。当時の東海道本線には小田原の蒲鉾、沼津の羽二重餅、静岡のわさび漬けといった名物がありました。そこで「名物がないなら、作ればいい」という気概が生まれてきたわけです。

―南京町(いまの横浜中華街)で、どのようにして焼売に出逢うことになったのでしょう?

野並:初代・野並茂吉は、崎陽軒の共同代表だった久保元横浜駅長の孫である久保健(くぼ・けん)氏(のちに日中戦争で戦死)と一緒に名物になりそうなものを探しながら南京町を歩いて、突き出しとして出されていた焼売に注目します。そして、点心職人の呉遇孫(ご・ぐうそん)氏と出会い、「冷めてもおいしい焼売を作ってほしい」と依頼しました。南京町で販売されていた焼売を、駅の構内で売るのに適した形にして売ろうと考えたわけです。

昔ながらのシウマイ 15個入り、現在のシウマイ一番人気

昔ながらのシウマイ 15個入り、現在のシウマイ一番人気

●空から「シウマイ」の無料券付きビラをまいてみた!

―初代・茂吉氏の北関東訛りから「シウマイ」という表記になったそうですが、最初の売れ行きは、いかがでしたか?

野並:「シウマイ」の発売当初は、1日10折から20折だったという記録が残っています。いまでも弊社が新作を発売しても、すぐにドーンと売れることはありませんので、こればかりは致し方ないかと思います。そこで、当時はあまり珍しくなかった広告らしいですが、小型飛行機に「崎陽軒のシウマイ」と書いた吹き流しをつけて飛ばしていたそうです。そして、「シウマイ」の無料引換券が付いたビラを、空からパーッと撒いたそうです。

―「シウマイ」は出来ましたが、今度は戦災で大きな被害を受けてしまいます。それでも、初代の茂吉社長は立ち上がったわけですね?

野並:昭和20(1945)年の横浜大空襲で、弊社社屋は二度目の焼失となりました。でも、戦前から展開していた崎陽軒食堂の経験を活かして、戦後、横浜駅構内に「KY食堂」を立ち上げました。打ちのめされてもタダでは起きなかったわけです。当時の諸先輩方は、すごいと思います。今年(2024年)の能登半島地震で被害に遭われた方も生活を守るため必死に立ち上がっていらっしゃいます。同じように立ち上がっていったのだと推察します。

歴代シウマイ娘の衣装(横浜工場・見学コースに展示)

歴代シウマイ娘の衣装(横浜工場・見学コースに展示)

●明るい時代へ、タバコの広告にヒントを得た「シウマイ娘」!

―そして、昭和25(1950)年には、「シウマイ娘」が登場するわけですね?

野並:初代の茂吉が、銀座の街頭でタバコを配っていたピース娘にヒントを得て登場させたのが「シウマイ娘」でした。当時、駅の立ち売りは男性の売り子が主流でした。そのなかで女性の方が、可愛らしい籠を持ってフリフリした華やかな衣装にたすきをかけて横浜駅のホームに立ったことで人気を博して、映画化もされました。ただ、列車のお客様とやり取りする必要がありますので、シウマイ娘には身長158cm以上という制限がありました。

―初代・茂吉社長は、震災・戦災を乗り越えてきたわけですね。

野並:こういう“歴史上の人物”の血が、自分には流れているのかという思いはあります。震災から立ち上がり、戦災から立ち上がってきたという事実はある以上、直近で言えば、コロナ禍のような大変なことがあっても、単に「コロナが明けた」ではなくて、ただでは起きずに、その後に何を作っていけるのかということを考えるところは、初代・茂吉の時代から残っている、弊社の精神性なのかなと思います。

横濱チャーハン

横濱チャーハン

南京町の突き出しから生まれた横浜名物「シウマイ」によって、崎陽軒の駅弁にも中華をベースとしたものが登場していきます。なかでも、シウマイと同じく、昭和初期に登場した「ヤキメシ」は、現在も「横濱チャーハン」(730円)として販売されています。平成9(1997)年からいまの名前になったそうですので、上の世代には、「ヤキメシ」のネーミングに懐かしさを憶える方も多いのではないでしょうか。

横濱チャーハン

横濱チャーハン

【おしながき】
・チャーハン(ご飯、炒り玉子、チャーシュー、海老、グリーンピース)
・昔ながらのシウマイ 2個
・鶏のチリソース
・筍煮
・きゅうり漬け

横濱チャーハン

横濱チャーハン

冷めてもパラパラっとした食感が楽しめる「横濱チャーハン」。トッピングの海老も、プリッとしていて心地よい食べ応えです。おなじみの昔ながらのシウマイは2個入っているほか、鶏のチリソースの少しピリッとした味わいが、食欲を一層そそってくれますね。なお、「横濱チャーハン」には、箸ではなく先割れスプーンが封入されていて、食べやすくなっています。折箱も小ぶりなので、小腹が空いたときにも重宝ですよね。

E233系電車・普通列車、根岸線・石川町~関内間

E233系電車・普通列車、根岸線・石川町~関内間

横浜中華街の玄関口となるのはJR根岸線の石川町駅、またはみなとみらい線の元町・中華街駅。横浜駅から中華街へは、根岸線・みなとみらい線の列車ともに、後ろの横浜寄りの車両に乗車し、石川町駅は中華街口、元町・中華街駅は1番出口を目指します。ちなみに、元町・中華街駅からすぐの朝陽門をくぐると、崎陽軒のアツアツのシウマイが食べられる「シウマイBAR(バル)」もあります。

連載情報

ライター望月の駅弁膝栗毛

「駅弁」食べ歩き15年の放送作家が「1日1駅弁」ひたすら紹介!

著者:望月崇史
昭和50(1975)年、静岡県生まれ。早稲田大学在学中から、放送作家に。ラジオ番組をきっかけに始めた全国の駅弁食べ歩きは15年以上、およそ5000個!放送の合間に、ひたすら鉄道に乗り、駅弁を食して温泉に入る生活を送る。ニッポン放送「ライター望月の駅弁膝栗毛」における1日1駅弁のウェブサイト連載をはじめ、「鉄道のある旅」をテーマとした記事の連載を行っている。日本旅のペンクラブ理事。
駅弁ブログ・ライター望月の駅弁いい気分 https://ameblo.jp/ekiben-e-kibun/

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