「自分だけ帰ってきてごめんなさい」曽我ひとみさん ともに拉致…母・ミヨシさん93歳の誕生日 22年前の帰国時“悲しい表情”の理由
日テレNEWS NNN / 2024年12月28日 9時40分
曽我ひとみさんと一緒に拉致され、いまだに帰国が果たせない母・ミヨシさんが28日、93歳の誕生日を迎えた。2002年、帰国した拉致被害者5人の中で、ただ一人“浮かない”表情を浮かべていたひとみさん。あれから22年、話してくれた理由には、ともに北朝鮮で過ごした横田めぐみさん、そして母への思いがあったという。(日本テレビ解説委員・加納美也子)
■24年ぶりの帰国 ひとりだけ「悲しそうな顔」
2002年10月15日。日本中がテレビ画面に釘付けになった。
映っていたのは、羽田空港に降り立った拉致被害者5人の姿。北朝鮮に拉致された5人が24年ぶりに帰国する様子を、テレビ各局は特番を組んで生放送で伝えた。記者1年目だった私は、岩手県の放送局でその様子を見ていた。
日朝首脳会談で北朝鮮が日本人拉致を認めてから約1か月後。北朝鮮に閉じ込められてきた日本人5人が、24年ぶりの帰国を果たした歴史的な瞬間だった。飛行機のタラップを降りる拉致被害者たち。蓮池夫妻・地村夫妻が家族と泣きながら抱き合って喜びを爆発させる姿に、日本中が涙した。
しかし、ただ1人、曽我ひとみさんだけは浮かない表情をしていた。ひとみさんは帰国できたのに、なぜ悲しそうな顔をしているのだろう。23歳の私は、とても気になった。
それから8年後、私は日本テレビ報道局社会部で働くことになった。
与えられた担当は“北朝鮮による拉致問題”。担当になって1年後、新潟県佐渡市に取材に行くことになった。イベント会場で母の救出を訴え署名活動を行うひとみさんを取材し、初めてご挨拶した。ひとみさんは夫や娘たちとの生活を大切にするため、取材は講演会や署名活動など一部に限っていた。都内や新潟でひとみさんの講演活動などがある時は、なるべく足を運んで彼女の言葉を聞いた。
自身も北朝鮮に拉致された『被害者』であり、母が北朝鮮に捕らわれたままになっている拉致被害者の『家族』なのは、ひとみさんただ1人。どうしても直接話を聞いてみたい。拉致問題を取材して16年、ようやくその機会を得た。
■姉妹のような2人 「私だと思って」と渡されたもの
1978年8月、ひとみさんは新潟県佐渡市で母・曽我ミヨシさんと自宅近くの雑貨店に買い物に行った帰り道、突然北朝鮮の工作員に拉致された。
当時19歳。母とはその瞬間から引き離され、指導員に「母親は日本にいるから心配するな」と説明された。
北朝鮮に連れて行かれたひとみさんは、数日後、前年に拉致された13歳の横田めぐみさんと招待所で出会う。
突然連れ去られ、家族から引き離された2人の少女は、北朝鮮という異国の地で支え合って生活したという。指導員の目を盗んでは、夜寝室のベッドの中でこっそり日本語で会話する2人。めぐみさんは、母・早紀江さんはいつもいい匂いがすること、部活からの帰り道にいきなり拉致されたことなどを話したという。そして、時折気持ちがあふれたように「帰りたい」という言葉も口にした。
姉妹のように支え合っていた2人。しかし、別れの時が訪れる。ひとみさんが、在韓米軍から北朝鮮に脱走したジェンキンス氏と結婚することになり、一緒に暮らすことができなくなったのだ。
めぐみさんは、別れ際にひとみさんに赤いスポーツバッグを贈った。それは、めぐみさんが新潟市で拉致された時に持っていた、大切な思い出の品だった。「私だと思って持っていて」めぐみさんはそう言って、かばんを渡したという。
ひとみさんは、そのかばんを大切にし、外出するチャンスがあると必ず持って行った。たまたま近くをすれ違うことがあったら、かばんを目印にして自分を見つけてくれるかもしれないと思ったからだ。かばんの内側には「横田めぐみ」の文字があり、北朝鮮の指導員に見つかれば取り上げられる可能性もあった。ひとみさんは、名前の上に紙を貼って隠した。めぐみさんの名前を黒く塗りつぶすようなことはしたくなかったという。
それから、ひとみさんがめぐみさんと会うことは二度となかった。ひとみさんは娘2人を出産し、家族を心の支えに生きながらえたという。
■帰国直前のショック “あの日から母が行方不明”
2002年、運命が動き出す。日本と北朝鮮が史上初の首脳会談を行い、金正日総書記が日本人を拉致したことを認め、謝罪したのだ。
ひとみさんは一時帰国できる拉致被害者の1人に選ばれ、帰国する5人が平壌に集められた。「めぐみさんと一緒に帰れる」ひとみさんはそう信じていたが、そこにめぐみさんの姿はなかった。ひとみさんは、自分の担当指導員に、めぐみさんはどうしてここにいないのか聞いた。指導員は「自分たちにはわからない」と答えたという。
その後、帰国直前に日本から来た事実調査チームと面会する中で、ひとみさんは大きなショックを受けた。日本にいると思っていた母が、自分が拉致されたあの日から、行方不明になっていることを知らされたのだ。
■「私の目で確かめるしかない」 ひとみさんからの手紙
私は2002年に思った疑問を改めてひとみさんに聞いた。24年ぶりに帰国した時、なぜ悲しそうな表情をしていたのか。
「自分だけ帰ってきてごめんなさいって直接言いたかったですけどね。まだそれが現実のものになっていないので、本当にそこが一番悲しいというか苦しい」
拉致被害者であり、被害者の家族でもあるひとみさん。24年ぶりに日本の土を踏んだのに、喜びよりも大きかったのは“罪悪感”だったという。
ひとみさんは取材に対し、以前手紙でも苦しい胸の内を明かしてくれていた。
【曽我ひとみさんの手紙より】
北朝鮮は お母さんは日本にいると言う。
日本は お母さんは日本にはいないと言う。
私の目で確かめるしかない
そして 絶対に母に会いたいと 強く願っていました。
そして タラップを一人で降りる時も どこかで母の姿をずっと探していました。
■自身も北朝鮮でつらい日々を過ごしたからこそ
その後は、北朝鮮に残してきた夫と娘を日本に呼び寄せることはできたものの、母を取り戻すことはかなわなかった。
高齢者福祉施設で介護の仕事に就いたのも、母を思ってのことだった。泊まり勤務などもこなしながら、休日には母の救出を訴えて講演活動や署名活動を行った。
北朝鮮に拉致されて46年。母・ミヨシさんは12月28日で93歳になった。自身も同じように北朝鮮でつらい日々を送った経験があるからこそ、わかることがある。
今この時間にも、拉致被害者たちは、ずっと日本を思っている。日本に帰る日が来るのを待っている。だからこそ、命が尽きる前に救い出してあげたい。
今回の取材は、一問一答のやり取りで行った。だからこそ、ひとみさんの肉声から、その強い思いがより伝わってきた。「あきらめない、あきらめない」。ひとみさんは、日本海を眺めながら、かみ締めるように繰り返した。
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