「我々は人間じゃないんだ」 修理できなければ“捨てる”兵器の一部 零戦搭乗員が見た最前線【戦後80年】
日テレNEWS NNN / 2025年1月1日 11時2分
3年9か月に及ぶ太平洋戦争で、日本では約240万人の兵士が亡くなりました。その多くは10~20代の若者。2016年に99歳で亡くなった原田要さんは、当時、最新鋭の戦闘機「零戦」に乗り、真珠湾やミッドウェーで戦いました。撃ち落とした敵パイロットの表情を忘れることができなかった生涯。「戦場に勝ち負けはない」と伝え続けました。
◆戦争と結びつかない“ひいおじいちゃん”
2010年9月、東京の靖国神社には、猛暑のなか、杖をつきながら高齢の男性たちが集まってきていました。彼らは、旧日本海軍のパイロットだった人たち。太平洋戦争当時は零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦に乗って戦う、二十歳前後の若者でした。
この日は、「零戦(ぜろせん)の会」の会合のため、全国から元パイロットが集まっていました。
原田要さん(当時94歳)は、ひ孫2人を連れて参加。“戦争”と“ひいおじいちゃん”が結びつくかを尋ねると、「全然」と話すひ孫たち。
原田さんのひ孫・今野智景さん(取材時13歳)
「戦争で撃ち落としたとか言ってても、“えっ、そうなの?”みたいな。そんな雰囲気がない」
◆真珠湾攻撃「いよいよ男の働き場所がきたなと」
原田さんは戦争でどのような体験をしたのか──。
戦後50年近く、原田さんは戦争での体験を語りませんでした。当時の記憶がよみがえり、夢でうなされる事も。しかし、若い世代に伝えるため、自らの体験を語るようになったといいます。
1933年、原田さんは16歳のときに海軍に入隊。19歳の時、その華々しさにひかれ、海軍のパイロットコースに志願し、トップの成績で戦闘機パイロットになりました。
そして25歳の時、当時の最新鋭機・零戦に乗って真珠湾攻撃に参加したのです。
元零戦パイロット・原田要さん(取材時94歳)
「いずれは、アメリカと戦わなければいけないと覚悟はしていました。いよいよ男の働き場所がきたなと、何となく武者震いしておりました」
◆もだえて落ちていった“敵のパイロット”の姿
1941年12月8日、日本の空母から飛び立った攻撃部隊が、ハワイの真珠湾を空襲しました。しかしこの時、原田さんの任務は空母の護衛。攻撃部隊には加われませんでした。
原田要さん(取材時94歳)
「ムカムカしてしょうがなくて、攻撃に行った人たちが帰ってきて、みんなが鼻高々で戦果の発表をしてる。私ははらわたが煮えくり返るようで、ギューっと耐えて聞いてました」
その後、原田さんの乗った空母「蒼龍」はスリランカに向かい、イギリス軍を攻撃しました。原田さんは、空中戦で戦闘機を撃ち落としましたが、墜落していく相手パイロットの顔を、忘れることができないといいます。
──その空中戦のとき、原田さんは何機くらい(撃ち落とした)?
原田要さん(取材時94歳)
「私の撃墜数は、自分の小隊の共同撃墜を入れて5機」
──そのうち何機くらい相手のパイロットが見えた?
「私は3機。嫌な顔して落ちて行ったのが3機。3人見ちゃったからね。相手のゆがんだ苦しそうな顔、恨めしそうな顔。もだえて落ちていく…。今でも思い出してね」
「だから私は戦争の最前線には勝ち負けはないんだなと(思う)。落ちた人は負けたように見えるし、落とした人は勝ったように見えるけど、同じなんだと。この嫌な思いを一生背負っていかなければならない」
◆ミッドウェー 目の前で部下が火だるまに
その後、空母「蒼龍」はミッドウェー島の攻撃に向かいましたが、ここで日本は、開戦以来、初めて惨敗を喫することになります。原田さんはこの時も、敵の航空機から味方の空母を守る任務についていました。
原田要さん(取材時94歳)
「(1942年)6月5日の朝、水平線の彼方に、ボツボツ敵の飛行機が見えてきた。『すぐ飛び上がれ』ということだった」
魚雷を積んだアメリカ軍の攻撃機が水平線上に現れると、原田さんは部下2人と編隊を組み、銃撃を加えました。敵も反撃するなか、次の攻撃に移ろうとした時、部下が狙い撃ちに遭い、原田さんの目の前で火だるまとなったのです。
◆「これが最前線なんだ」 重傷の兵士を前に軍医が…
この戦いでは、日本の空母4隻が沈没。降りる空母がなくなった原田さんは海上に不時着し、4時間漂流した後、味方の駆逐艦に救助されました。
その甲板上は沈んだ空母の乗組員であふれていました。
原田要さん(取材時94歳)
「駆逐艦の甲板にあがって、びっくりしました。それこそ地獄です。手がない、足がない、顔がわからない…。裸みたいにみんな燃えちゃっていた。それで苦しい、痛い、水って騒いでいる」
自分の体は“なんともなかった”という原田さんは、「苦しんでいるのを、早く何とかしてやってください」と軍医官に頼んだといいます。
原田要さん(取材時94歳)
「軍医官は『そう言うけども、これが最前線なんだ。こういう人は手をかける人手もないし、かけてもどっちみちダメなんだから、君のようにまたすぐ手を加えれば飛べる人間を先にするんだ。平和の医療と違うんだ、反対なんだ』と」
原田さんは、自分たちが人間でなく兵器の一部として扱われていると感じたといいます。
原田要さん(取材時94歳)
「我々は人間じゃないんだと思う。鉄砲の弾か、機関銃なんだと」
「修理すれば弾を撃てる機械から直して、銃身が折れ曲がって弾が出ないというのは捨てちゃうんだと。これが戦争なんだと」
◆家族と1日だけの再会 「みすぼらしい」けど「きれいだな」
原田さんは、部隊再編のため日本に戻ると、わずか1日でしたが、妻・精さんたち、家族と一緒に過ごすことができたといいます。10か月ぶりの再会でした。
原田要さん(取材時94歳)
「(長野から)家内を呼んで上野の駅で会いました。田んぼから子どもを背負って、田んぼに出てるまんまで来た。本当にみすぼらしいんだ」
「子どもは背中でギャーギャー泣いてるし。かわいそうだな…、しかし、きれいだなと思いました」
◆敵の戦闘機が急速に接近
1942年10月、原田さんが乗った空母「飛鷹」はガダルカナル島の攻撃に向かいました。そこで敵の戦闘機と差し違えることになったのです。
アメリカ軍の港へ向かっていた原田さんたちの零戦隊。目標にさしかかったその時、上空の雲の中から、アメリカ軍の戦闘機が襲いかかってきた。
原田要さん(取材時94歳)
「12~13機、サーっと降りてきた。見てる間に両翼の2機ずつが、火だるまになった」
ゼロ戦隊がアメリカ軍戦闘機の後を追うと、アメリカ軍機の1機が後ろに回り込もうとする──。原田さんがその1機を「おれがやるから」と、下から撃ち上げると、敵の機も原田さんを狙って降りてきた。
原田さんのゼロ戦と敵の戦闘機は、真正面で撃ち合いながら急速に接近。すると原田さんは次の瞬間、左腕に衝撃を感じた。機関銃の破片とみられる金属が腕を貫通したのだった。
原田要さん(取材時94歳)
「どーんとね、ハンマーで殴られたみたいに跳ね上がっちゃった。見たら(腕に)卵くらいの穴が開いていた。やられたな、と」
◆死を覚悟したとき、“頭をよぎった”のは
一度はあきらめかけたが、なんとか地上に不時着することができたといいます。その傷は、68年がたった取材時も残っていました。
──もうダメだと思った時、頭をよぎることはありましたか?
「やっぱり自分の家庭、子ども。『天皇陛下万歳、大日本帝国万歳』と言っている人はいるかもしれないけど、その人は死ぬ人じゃない」
「死ぬときには独身の人は『おっかさん』。それから妻帯者は、“女房が困るだろう”、“子どもがどうやって大きくなるかな”と、そういうことが頭をよぎる」
九死に一生を得た原田さんは、治療のため日本に戻され、その後はパイロットの教官として勤務。終戦を迎えました。
◆子どもたちには「経験させたくない」
戦後は家族を養うため必死に働く日々でしたが、地元・長野の人たちに頼まれたことがきっかけで、戦後20年がたった1965年、幼稚園の経営を始めました。
「園長先生-!」と慕われる原田さん。「大きくなったら野球選手になりたいです」という園児の声に、目を細めていました。この場所にいる時は、戦争の記憶が薄れるといいます。
原田要さん(取材時94歳)
「子どもたちには、我々が味わった嫌なことは経験させたくないなと」
「自分の体、生命を大事にするということを、何とか子どもたちに伝えたい。自分の体が大事であれば、他人の体も、お友だちのことも大事なんだよというふうに」
(※2010年12月8日放送を再編集)
【取材した日本テレビ・松嶋洋明ディレクター 戦後80年に思うこと】
このVTRのため原田要さんにお話をうかがったのはいまから15年前、2010年のことでした。その時点で、真珠湾攻撃に参加された搭乗員のなかでお元気な方は原田さんのほかに数人しかいらっしゃらなかったと記憶しています。
太平洋戦争の緒戦、無敵といわれた零戦を駆っていわゆる勝ち戦も経験されている原田さんでしたが、敵機を撃墜し搭乗員の命を奪ったことで、戦後長らく罪の意識にさいなまれ苦しんだとお話されていたことが強く印象に残っています。
原田さん(※取材時94歳)
「今になって飛行機で追われる夢を見るんです。戦争中は追う方ばかりだったのに。追われる方の心理状態を察してしまうからでしょうか。逃げても逃げてもくっついてくる。苦しくなって声をあげると、そばに寝ていた家内が起こしてくれて、あぁ夢で良かったと。いまだに時々そういう夢を見ます」
その原田さんが「我々が味わった嫌なことは絶対に経験させたくない」として経営する幼稚園で園児に教えていたことがあります。
原田さん(※取材時94歳)
「私は子どもたちに自分の体を大事にしなさい、そうすれば人さんの体も虫や植物の命も大事だとわかる。自分の命と同じくらい大切にして守ってあげないさいと言っているんです」
園児たちと遊んでいると、悪い記憶が薄れて非常にありがたいとほほえんでいた原田さん。2016年5月、99歳でお亡くなりになりましたが、園児たちの多くが今は成人し社会で活躍しています。原田さんはそのことをなによりも喜んでいらっしゃるのではないでしょうか。
◇
広島・長崎に原爆が投下され、戦争が終わって80年となります。戦争をした国に生まれた私たちが、二度と戦争を繰り返さないという「誓い」の意味を改めて考えます。情報提供サイトで資料や証言を募集しています。
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