1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

〈第32軍ができた日(下)〉SNSやガイドで沖縄戦を発信 メディア界に飛び込む22歳「平和を紡ぎたい思い、若者も同じ」【あの日 あの時 戦場で~若者とたどる沖縄戦80年】(動画あり)

沖縄タイムス+プラス / 2024年3月25日 5時15分

 第32軍司令部壕など、沖縄戦について交流サイト(SNS)で発信している沖縄大学4年の本村杏珠さん(22)。幼い頃から沖縄戦の記事をよく読んでいた。大学生になって同世代と話すうち、戦争を知らない人が多いと感じた。

 「私たちの世代が伝えないと。そのためには学ばないと」。16歳の時に鉄血勤皇隊に動員された與座章健さん(95)と、沖縄戦の記憶が刻まれた場所を歩いた。首里城地下で第32軍の壕掘り作業した話を聞き漏らすまいと耳を傾けた。

 1944年3月22日に、大本営が日本軍の第32軍を創設し、沖縄に配備されることが決まった。部隊配備により、陣地構築や軍への食糧供出が日常になるなど、県民生活は軍事一色に染められていく。あれから80年。政府は再び南西諸島の防衛力強化を唱え、沖縄に自衛隊配備を進めている。二度と惨禍を繰り返さないために沖縄戦をどう継承していくか。80年前の記憶が刻まれた場所を体験者と若者がたどり、平和を考える。〈第32軍ができた日(上)〉はこちら。 

 話は戦争体験だけではない。「長距離選手の先輩と津嘉山から一緒に一中まで通ったよ」「首里から帰るとき、暗くなるとおばけが怖かったさ」。今の子どもたちと何ら変わらない日常。「そんな大切な暮らしが、戦争で全てが壊れてしまったんだ」と痛感した。

 「あのばかな戦争を、人間は何で防げなかったのか。今、人間は少しは利口になったのか、まだ足りないのか」。自問自答するような與座さんの言葉が胸を突く。「私も考えながら生きていきます」としか返せなかった。

「継承が止まってしまう」と危機感

 本村さんが沖縄戦の発信を始めたきっかけは大学1年生の時のオンラインイベント。県外の同世代と話すと、日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日の「慰霊の日」について、詳しく知る人は皆無だった。県内の同世代にも聞いたが、慰霊の日は多くが知っていたものの背景まで理解している人は少なかった。

 コロナ禍で体験者の話を聞く機会が減り、「沖縄戦の継承が止まってしまう」と危機感を強めた。コロナの規制が解けると、積極的に講演会や戦跡巡りに参加し、学んだことを発信。昨年は第32軍壕のフィールドワークの様子を、イラストや写真を交えてユーチューブで配信した。

 学生の傍ら、モデルとして県内で活動してきた。沖縄戦についてインスタグラムに投稿すると、モデル活動の写真や動画より視聴者数は減ってしまう一方で、「いいね」を意味するハートの数は増えた。

 ガイドとして友人や地元の高校生、修学旅行生に戦跡を案内することもあった。若い人は興味がないわけではない。「平和を紡ぎたい思いは若い世代も一緒。学びたいけど、何から始めていいか分からない人が多いのでは」と考える。

 4月からは県内のテレビ局に就職する。沖縄メディアの一員として沖縄戦体験者の言葉を伝え、次代に継承することも仕事になる。

 約80年前、首里城地下で壕を掘った與座さんの言葉を思い出す。「負の遺産である32軍壕を保存公開し、多くの人に知ってほしい。與座さんのように語り継いできた方に寄り添って伝えていきたい」と誓った。
(社会部・當銘悠)

第32軍と沖縄(資料編)

 「鉄の暴風」と呼ばれる凄惨(せいさん)な地上戦で県民の4人に1人が犠牲になった沖縄。しかし1943年半ばまでは、日本の陸海軍にとって軍事戦略上さほど重要な拠点ではなかった。敗色が強まり、軍が場当たり的な対応を繰り返す中で、県民は戦火に追いやられていった。(社会部・吉田伸、當銘悠)

当初は重要視されなかった沖縄

 1941年12月8日、日本軍が英領マレー半島に上陸、続いて米ハワイ真珠湾を奇襲攻撃し、太平洋戦争が開戦した。南太平洋のソロモン諸島などで米軍の反撃が激しくなった43年9月、天皇や政府、軍の代表らは御前会議で「絶対国防圏」を定めた。本土防衛と戦争継続のため必要不可欠とされた領域で、防衛線は千島列島からサイパンなどのマリアナ諸島、西部ニューギニア、ビルマ(現ミャンマー)などを結んだ。その防衛線を後方から支援する航空中継基地として焦点が当たったのが南西諸島だった。

 

340人で創設

 大本営は1944年3月22日、南西諸島(北は屋久島南のトカラ列島から南は波照間島、東は南北大東島から西は与那国島)に第32軍を配備することを決定した。中城湾臨時要塞(ようさい)、海軍小禄飛行場(現那覇空港)など軍事拠点が限られていた沖縄に、16カ所の飛行場を急造して活用する計画「十号作戦準備要綱」を立案した。

 3月29日に渡辺正夫軍司令官と北川潔水参謀長が那覇に到着する。司令部は那覇市安里の「養蚕試験場」に置き、4月1日午前0時に始動した。当初の軍司令部人員は約340人だった。

 5月ごろから飛行場建設部隊が沖縄へ。「不沈空母」化のための建設ラッシュに住民や小学生まで動員された。沖縄の日常は一変していくが、地上戦はまだ検討されていなかった。

サイパン陥落で軍増強、地上戦へ生活一変

 1944年7月、第32軍は大きく作戦変更を求められる。サイパンが陥落し、「絶対国防圏」が崩壊したのだ。大本営は米軍の沖縄本島上陸は免れないと判断。地上戦を想定し「捷号(しょうごう)作戦」を新たに立てた。

 「満州」(現在の中国東北部)にいた第9師団(武部隊)を第32軍に編入。8月には牛島満中将が司令官に就任する。

 同じく満州から第24師団(山部隊)、中国北部から第62師団(石部隊)が編入され、海軍の沖縄方面根拠地隊も加わり、第32軍は増強されていく。各部隊は地域の学校や村屋(現公民館)を接収。民家などに兵隊が宿泊するようになり、県民生活は軍事一色と化した。

 米軍の上陸地点は沖縄本島の中南部と想定された。県内各地に分散した部隊は陣地構築を進めた。司令部は交通の要衝、南風原村(現南風原町)津嘉山に移すことを決めた。「チカシモー」「高津嘉山」と呼ばれる二つの丘陵地を掘り込んで、総延長2キロの軍司令部壕が構築された。

「10.10空襲」に衝撃、首里へ

 1944年10月、沖縄や奄美は無差別爆撃「10.10空襲」に見舞われた。

 那覇をはじめ各地の飛行場や港が壊滅的被害を受けた。想定以上の米軍の砲爆撃力に、津嘉山司令部壕の強度はもたないとの懸念が高まる。展望がきかない地理的条件も踏まえ再考した第32軍首脳は1944年12月、司令部の中枢を首里に移し、津嘉山には経理部などを残した。首里城地下約30メートルに、沖縄師範学校の学生や地域住民らを動員して総延長約1キロの壕を掘る計画に切り替えた。

 同じく12月、日本軍はフィリピンのレイテ島決戦に備え、台湾の部隊を一部移動させ、その穴埋めとして第32軍の主要部隊の第9師団を台湾へ移す。戦力が大幅に落ちた第32軍は部隊配置や戦闘方法を変更。年明けの1945年1月、大本営は「帝国陸海軍作戦計画大綱」を決める。本土決戦の時間稼ぎをする持久作戦にかじを切っていった。沖縄は米軍の侵攻前に本土の「捨て石」と化した。

 第32軍司令部は構築途中の首里城地下壕に移った。五つの坑道があり、牛島司令官や長勇参謀長のほか、総勢千人余の将兵と県出身の軍属・学徒隊、「慰安婦」が雑居した。

 1945年4月1日、米軍が上陸。5月に入ると浦添村(現浦添市)の前田高地など中部戦線の主力部隊が壊滅状態となり、司令部は22日、南部への撤退を決める。27日、首里を脱した。撤退前に壕の主要部分と坑口を破壊した。

 【参考文献】沖縄県教育庁文化財課史料編集班「沖縄県史各論編第6巻沖縄戦」(沖縄県教育委員会)▽沖縄県教育庁文化財課史料編集班「沖縄県史資料編23沖縄戦日本軍史料沖縄戦6」(沖縄県教育委員会)▽沖縄県文化振興会史料編集室「沖縄県史各論編第5巻近代」(沖縄県教育委員会)▽沖縄県立埋蔵文化財センター「沖縄県の戦争遺跡」(沖縄県立埋蔵文化財センター)▽南風原町史編集委員会「南風原町史第9巻戦争編本編 戦世の南風原-語る のこす つなぐ」(南風原町)▽吉浜忍「南風原町沖縄戦戦災調査4津嘉山が語る沖縄戦」(南風原町教育委員会)▽林博史「沖縄戦と民衆」(大月書店)▽防衛庁防衛研修所戦史部「戦史叢書沖縄方面陸軍作戦」(朝雲新聞社)▽八原博通「沖縄決戦 高級参謀の手記」(中央公論新社)

〈第32軍ができた日(上)〉はこちら
……………………………
◆次回は4月、「サイパン陥落」をテーマに配信します。

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください