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沖縄水産の実習船が救った難民、元船長と41年ぶりの再会「あなたがいなければ、私たちはここにいない」

沖縄タイムス+プラス / 2024年6月24日 16時0分

翔南丸の元船長宮城元勝さん(左)を抱きしめて感謝を伝える元ベトナム難民のグエン・ソン・マイさん=13日、那覇市内

  1983年8月、ベトナムを出国し南シナ海で遭難した1隻の小型木造船を、沖縄水産高校の実習船「翔南丸」が救助した。全長約13メートル、幅4メートル足らずの小さな船に、乳児から50代までの105人がひしめき合っていた。ベトナム戦争後、国外に逃れようとした「ボートピープル」だ。当時救出された元ベトナム難民のグエン・ソン・マイさん(84)一家が13日、那覇市内で翔南丸の元船長・宮城元勝さん(81)らと41年ぶりに再会した。「あの日のことを忘れたことはない。あの日がなければ、私たちはここにいない。感謝しかありません」(デジタル編集部・川野百合子)

小型木造船に105人ぎゅうぎゅう詰め

 南ベトナムの元軍人だったグエンさんは1975年のサイゴン陥落後、北ベトナム側に拘束され、約7年間投獄された。自由を求めて1983年8月4日、妻のティ・ヴォンさんや、9カ月から16歳の子ども6人と共に乗船しベトナムを出国した。

 3日でエンジンが壊れ、漂流した。食料や燃料も乏しかった。「何隻もの船が通ったが、誰も助けてくれなかった」(グエンさん)

 8月8日の早朝。翔南丸の1等航海士だった仲村正さん(78)は、生徒から難民船の報告を受けた。機関長の宮城通功さん(84)は「あの頃、あの辺の海には海賊がよく出ていた」と振り返る。

 警戒しつつも、仲村さんはすぐに船長の宮城さんを起こした。宮城さんは「たいまつを燃やしている船を発見して、よく見てみると、人がぎゅうぎゅうに乗っていた。ボートピープルだと気づいた」と話す。

翔南丸で過ごした4日間

 救助された時の心境を、グエンさんは「その時初めて、求めていた自由を得られたと感じた。とてもうれしかった」と語る。

 今でも覚えている光景がある。マニラで別れた時、船長の宮城さんが涙を流して別れを惜しんでくれたことだ。翔南丸で一緒に過ごしたのは4日だったが、今でも忘れられない思い出だ。

 当時14歳で救助された次女トゥオン・ヴィさん(55)は「父は毎年8月4日には家族に翔南丸の話をする」と笑う。

 一家はマニラから米国カリフォルニアに渡った。難民として米政府の援助などもあったが、グエンさんは早朝の新聞配達などで家計を支えた。現地で生まれた末娘を含め、7人の子どもたちは弁護士や薬剤師、生物学者、エンターテイナーとして活躍している。

きっかけは1本の新聞記事

 再会のきっかけは1本の新聞記事だった。

 長年、翔南丸の関係者を捜していたトゥオン・ヴィさんがある日、英字新聞「ジャパンタイムズ」に掲載された、2019年7月14日付沖縄タイムスの記事を目にした。同じ船で救助され、後に日本国籍を取得して都内でベトナム料理店を営む南雅和さんと、宮城さんの再会を報じていた。すぐに南さんを通して、宮城さんの連絡先を聞いた。

 直接お礼を伝えに行こうと、日本行きの航空チケットを確保した。だが、世界的に新型コロナウイルスが流行し、あえなく頓挫(とんざ)。紆余(うよ)曲折があったからこそ、再会の喜びはひとしおだった。トゥオン・ヴィさんは「この数年、この時を待っていた。まさに夢がかなった」と声を震わせた。

 今回来日したのは、グエンさんの末娘メン・トゥさん(39)と、トゥオン・ヴィさんの娘ヴィ・アンさん(23)を含む5人。グエンさんは「3世代にわたってきた。助けてくれてありがとうと直接面と向かって感謝を伝えたかった」と話す。感謝を示すため米国で制作した大きな盾を宮城さんに手渡した。

 宮城さんは「4日間だけだったが同じ釜の飯を食べた。渡米後も苦労したと思う。いつまでもこの縁が続くといい」と笑顔を見せた。

 一行は14日、沖縄を離れた。ベトナムの親族を訪ねた後、米国に戻るという。グエンさんは「次は今回来られなかった残りの家族も連れてまた来たい」と話した。
 

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