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「名酒あわもり」の価値

沖縄タイムス+プラス / 2024年7月14日 15時0分

沖縄県酒造協同組合(那覇市)にある「君知るや名酒あわもり」の石碑

島袋晋作・政経部

 君知るや名酒あわもり-。

 沖縄県酒造協同組合(那覇市)の正面に鎮座する石碑のこの碑文には、泡盛への愛、そして泡盛の造り手たちの誇りがにじむ。

 碑は1987年に建てられた。ちょうど海邦国体(第42回国民体育大会)が開かれた年だ。

 全国一巡の最後を飾るこの大会には、浩宮時代の天皇陛下が出席。当時8歳の私は父に連れられ、国体の会場に通った。場内のアナウンスで流れた「浩宮さま」という聞き慣れない呼称に、「ひろのみやさま?」と首をひねったのを覚えている。

 その後、沖縄訪問を予定されていた昭和天皇が病に倒れ、大会会場では日の丸を焼いた事件もあった。沖縄が激しく揺れた当時の空気は、おぼろげながら印象に残っている。

 そんな時代にできた先の石碑の文字を揮毫(きごう)したのは、かつて酒造業界で「酒の神様」と敬われた発酵学の権威で、東京大学名誉教授の坂口謹一郎博士。

 「君知るや-」は沖縄が日本に復帰する前の1970年3月、雑誌「世界」(岩波書店)に発表した論文のタイトルだ。

 表紙には沖縄問題に関わり続けた評論家の中野好夫氏や、作家の大江健三郎氏の名も並び、当時もまた沖縄は「復帰」に揺れていたことが伝わってくる。

 ただ、坂口氏の論文は泡盛造りに欠かせない「黒麴(こうじ)菌」の研究や、長期間の貯蔵で熟成するという日本酒にはない特徴など、沖縄固有の文化への好奇心にあふれた内容で、その異色さがかえって目を引いたのかもしれない。

 坂口氏はこの中で「黒麴菌というふしぎなカビを育てあげて、泡盛という名酒を作り出した沖縄県民の素質や伝統に対して、限りない魅力を感ずるものである」とつづっている。

 琉球政府が発足した1952年当時、泡盛を含む「しょうちゅう乙類」の製造免許を付与された酒造所は156件もあった。44社が泡盛を製造している今と比べ、3.5倍もの酒造所があった計算になる。一昨年、当時の酒造所のラベルが沖縄県酒造組合(那覇市)で大量に見つかり、大衆にとって泡盛がいかに身近な存在だったかを痛感した。

 ただ、増加傾向にあった泡盛の製造量は1957年から減少に転じる。米民政府の貿易管理が廃止され、自由貿易に移行。関税のかからない海外産のウイスキーやビールが市場に出回り、泡盛業界は激しい競争にのみ込まれていく。酒造所の廃業が相次ぎ、復帰の1972年には60件にまで減った。

 そんな時代に発表された坂口氏の論文は、泡盛に関わる人々を勇気づけ、精神的な支えになったに違いない。

 しかし、近年は販売が振るわない。復帰後は酒税の軽減措置で保護されてきたはずなのに、毎年春にある年間出荷量の発表を見て、思わずため息をついてしまう。

 軽減措置の恩恵の一方、嗜好(しこう)の多様化や若者のアルコール離れが急速に進む。小規模故に競争力を高めにくい事情もあるため、経営改善は容易ではない。

 その軽減措置も今年の5月15日からは段階的な引き下げが始まった。円安による原材料・資材費などの値上がりも大きな不安要素となっている。だが、生き残りにかける強い思いが、結果に結び付く場面も少しずつ出てきている。

 価格転嫁や市場ニーズを踏まえたウイスキーの製造などの多酒類化が進み、2023年の営業赤字は44社中21社で前年の30社から改善。全体の営業利益も5年ぶりに220万円の黒字になった。

 多酒類化にはさまざまな意見があろうと思うが、経営基盤が安定してこそ泡盛を守っていけるという考え方もできる。

 政府は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に泡盛や日本酒、焼酎などの「伝統的酒造り」を提案している。ことしの11月ごろには、ユネスコ政府間委員会で審議・決定する見込みだ。

 泡盛業界のみならず、消費者も「名酒あわもり」の価値を再認識する機会になるだろう。その時は、いつもビールやハイボールで乾杯する友人たちを誘って、泡盛を飲み交わしたい。泡盛再興の追い風になることを願って。

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