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[社説][沖縄戦80年]学童疎開 未知の地へ尽きぬ不安

沖縄タイムス+プラス / 2024年8月1日 4時0分

 戦争は家族を引き離し、引き裂き、子どもたちに深い心の傷を残す。

 ウクライナやガザがそうだ。かつて沖縄もそうだった。

 1944年夏。サイパン陥落に伴い、沖縄で、二つの大きな動きが同時並行して進んだ。

 一つは、沖縄の戦場化を想定した大規模な兵力配備と飛行場建設、陣地構築などの要塞(ようさい)化の動き。もう一つは、44年7月7日、閣議で決定された県外疎開の指示である。

 県外疎開は軍の要請に基づき、政府が決定したものだ。軍はなぜ住民の県外疎開を急がせたのだろうか。

 実は安全地帯に避難させるという人道的理由だけではなかった。軍にとって大きな理由は食糧の確保だった。

 戦況が悪化し、海上輸送が途絶えた場合、備蓄食糧が底を突く恐れがあり、食糧確保は軍の優先課題だった。

 一家の大黒柱となる青年男女は沖縄に引き留め、足手まといになる老幼婦女子を島外に立ち退かせる-ここにも県外疎開の性格が端的に表れている。

 疎開業務は難航を極めた。海上の危険に加え、家族が離れ離れになるのを嫌がる親が多かった。知らない土地での生活不安も大きかった。

 国民学校の校長や教師が連日のように家庭を訪問し、父母を説得した。

■    ■

 県を挙げての働きかけが効果を発揮し、次第に「血筋を絶やさないため、せめて子どもだけでも安全な場所へ」という考えが浸透するようになる。

 学童疎開を受け入れたのは宮崎、大分、熊本の九州3県。最終的な人数ははっきりしないが、およそ7千人とみられている。

 疎開船に乗船する学童の上衣には本人の住所、氏名、年齢を書いた白布が縫い込まれていたという。

 「身元をハッキリさせる配慮でもあったが、万一に備えた死の装束でもあった」と、当時、県特別援護室長として疎開業務を担当した浦崎純氏は指摘する(浦崎著「消えた沖縄県」)。

 44年8月15日、学童疎開の第一陣131人が出発し、翌日、鹿児島に着いた。

 学童疎開は生死をかけた「もう一つの戦争」でもあった。

■    ■

 当時、日本の植民地だった台湾にも石垣島や宮古島などから多くの人たちが疎開した。

 沖縄県人は地元の台湾人とも日本人とも言葉や生活習慣が異なり、それが差別感情を生むこともあった。

 11歳の時、疎開した高安六郎さんは言う。「本土人から沖縄人に対する差別はそれはもうたいへんなものでした」(沖縄県平和祈念資料館証言映像より)。

 今年は学童疎開80年の節目の年に当たる。疎開の記憶を継承するだけでなく、戦争が子どもたちに与える影響を幅広い視点から考える機会にしたい。

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