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沖縄の被爆者たちは…

沖縄タイムス+プラス / 2024年8月18日 15時0分

広島や長崎で被爆した沖縄県内の被爆体験者の証言などがまとめられた著書「沖縄の被爆者」(1981年、福地曠昭編著)

社会部・新垣玲央

 8月になると、ふと思い浮かぶいくつもの表情がある。沖縄本島中部の90代女性もその一人。取材で訪れた私を玄関先で出迎えた時、送り出す時の寂しげなほほ笑みが忘れられない。

 出会ったのは、今から5年前の2019年7月末。沖縄の被爆者の体験や戦後の生活について聞き取りをした時のことだった。女性は10代で長崎へ出稼ぎに行き、1945年8月9日、米軍による原爆投下で被爆していた。

 語ってくれたのは、爆心地周辺で目の当たりにした「人間が人間にも見えない地獄」の光景、無数の遺体処理を手伝った時の言葉にできない感情。そして、故郷沖縄で強いられた貧困と偏見・差別に苦しんだ生活、心身の異変に関する話だった。

 3時間以上にわたる取材の大半で語られたのが、戦後の苦悩。家族を沖縄戦で失い、頼れる親戚もほとんどいなかった。思いを寄せた男性と一緒になる話もあったが、立ち消えになった。周囲に被爆者だと知られたことが理由だったという。

 語り口は穏やかでも、表情を何度もこわばらせていた。話が一区切りして撮影しようとすると、記事にすること自体を拒まれた。匿名での記事化をお願いしても、「もういいさ、あんたが聞いてくれただけで」とかたくなに繰り返すばかり。その時は諦めて、翌年の同じ時期に再度訪ねようとすると、施設に入っていた。あれが、最初で最後の取材となった。

 取材当時、テーブルの傍らには多数の薬が散らばっていた。それを横目に、何度も吐き捨てるように静かに口にした言葉が今でも耳に残る。「私たちはね、一番最悪な時代、最悪な日本の時に生まれたんだよ」

 広島や長崎で被爆し、沖縄に戻ってきた県出身者らは、本土と異なる境遇の中で長年放置され続けていた。米軍統治下で憲法や医療法が適用されることはなく、被爆者の存在が明らかになったのは1963年。当時の米国民政府が認めない中、当事者らが声を上げたことで、本土よりも約10年遅れとなる1967年に旧原爆医療法の準用が始まった。

 当時の沖縄では原爆に関する知識や情報、被爆者への理解も乏しく、偏見や差別への恐れなどから多くが口を閉ざしていた。凄惨(せいさん)な地上戦を経験した沖縄戦の記憶が人々に残る中、被爆体験を語ることに対する躊躇(ちゅうちょ)や後ろめたさといった複雑な感情も重なっていた。

 2019年に取材した別の女性は、2歳で被爆したが差別や 偏見を恐れて事実を隠し続けたこと、夫や家族にも長年打ち明けられなかった苦しみを吐露した。現実を受け止めようと初めて被爆者健康手帳を取得したのが、その年の2月だった。

 翌年に取材した当時70代の女性は「この子も一生苦しむかも」と悩みながらも長女を出産したことを振り返った。第2子も授かったが、産むことは諦めていた。長女が若くして他界するまで、その事実を伝えることができなかったことなど苦悩を明かした。

 「あんな戦争さえなければ」。どの体験者の取材でも、同じ言葉が重く響いた。 

 沖縄の被爆者の歴史や体験がまとめられた著書「沖縄の被爆者」(1981年、福地曠昭編著)は、約70人の被爆体験が記されているが、その半数以上が仮名となっている。実名を出していても、家族にはほとんど語っていない体験者も、少なくはない。

 那覇市の平良正男さん(80)は1歳で被爆し、当時の記憶がない。幼い自分と母を捜して被爆した父の体験を初めて知ったのは2019年の取材時だった。父の体験が記されたその書籍に初めて触れ、言葉を詰まらせた。両親とも「他界するまで広島を語ろうとはしなかった」と話した。

 平良さん自身も被爆者と知られるのを恐れた時期は長く、「若い時は特に、あの恐ろしい場所にいたこと、自分がその(被爆者)一員だと知られたくなかった」と明かした。年齢を重ねて少しずつ向き合えるようになったといい、2022年には初めて広島市を訪れ、平和記念式典に参加した。被爆から77年の年。両親が幼い自分を抱えて被爆した現場を見たいという思いとともに、戦争のない世界、核兵器廃絶の進まない現状への憂いも強くあった。

 戦後80年に差しかかる今、平和と核廃絶を訴え続ける被爆者の高齢化は進み、沖縄では被爆者健康手帳の所持者が2024年3月末現在で70人(沖縄県まとめ)となった。県内で証言できる体験者は数えるほどしかいない。被爆者の訴えは実現しない一方、ロシアのウクライナ侵攻は止まらず、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃が続くなど中東情勢も緊迫し、核抑止論は強まっている。

 県原爆被爆者協議会の理事長を務めた故伊江和夫さん(享年91)は生前、2019年の最後の取材で、継承の先行きを案じていた。沖縄の現状に触れ「政府は県民、国民の声に聞く耳を持たない。力で抑えつけ、時の政権がやりたい方向に持っていこうとする気がしてならない」とも語り、県内で進む自衛隊の配備増強や名護市辺野古の新基地建設の強行にも危機感を示した。

 「戦争を始めて何百万人も亡くなり、敗戦した。なぜ戦になったのか、あの戦争、あの原爆からどんな教訓を得ているのか。歴史をもっと突き詰めて検証し、自国第一ではなく、戦をしないためにどうするかをまず考えるべきだ」。取材の最後にはそう繰り返し強調し、現状を憂う言葉が並んだ。

 被爆者たちが訴え続けてきた思いや指摘は、沖縄戦を含めて他の戦争体験者の言葉と同様に、今の私たちにそのまま向けられている。これから生まれる新たな命はもちろん、今の若い世代に「最悪の時代に生まれた」と言わせないためにも、その言葉一つ一つと改めて向き合っていきたい。
 

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