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[社説][沖縄戦80年]対馬丸撃沈 未来奪った悲劇忘れぬ

沖縄タイムス+プラス / 2024年8月22日 4時0分

 戦争は多くの無辜(むこ)の命を奪うだけでなく、生き残った後も重しとなり長く苦しめる-。対馬丸の悲劇が今を生きる私たちに伝える教訓の一つである。

 1944年8月22日の午後10時過ぎ、学童や一般住民ら計1788人を乗せた疎開船「対馬丸」が米軍の魚雷を受け沈没した。

 乗員の8割に当たる約1500人が犠牲に。中でも多かったのが国民学校ごとに集められた学童だった。

 その数784人という。ただ、沈没後も日本軍によって厳しい箝口令(かんこうれい)が敷かれたため、被害者に関する確かな情報は今も多くない。

 再び家族に会えるのか。疎開先でどうなるのか。疎開は子どもたちにとって賭けのようなものだった。直前になって乗船を取りやめる子や、逆に、親が嫌がる子どもを無理やり乗せるなど、出航当日も港は乗船を迷う親子でごった返していた。

 疎開の説得に当たったのが国民学校の教員たちだ。その一人、引率乗船した新崎美津子さんも子どもたちと共に海に投げ出された。

 4日間の漂流で死線をさまよった末に救助されたものの、多くの教え子が犠牲となったことへの自責の念から、その後沖縄に帰ることはなかった。

 「私は生きるべき人間ではなかった」(『蕾(つぼみ)のままに散りゆけり』上野かずこ著)。90歳で亡くなった新崎さんが晩年まで口にしたという。戦争が残した傷の深さは計り知れない。

■    ■

 犠牲者の遺骨や遺品がほとんどないことも対馬丸の特徴だ。

 那覇市の対馬丸記念館には今年8人の遺影が追加掲示された。これにより遺影は計414人分となったものの、氏名が判明している1484人の3分の1にも届かない。

 沖縄戦で燃えてしまったケースのほか、疎開先から沖縄に戻れなかった遺族や、惨劇を思い出したくないと断る人も少なくない。

 戦争の傷は遺族の心にも深く刻み込まれている。

 あれから80年-。先島諸島では、いわゆる「台湾有事」を念頭にした住民避難計画の策定が進む。

 しかし実効性への疑問は尽きない。対馬丸撃沈の1カ月半後には10.10空襲が起き那覇は市域の9割が焼失。その半年後には住民の4人に1人が犠牲となった沖縄戦に突入していったのである。

■    ■

 ひとたび戦争が起きれば安全な場所はどこにもない。対馬丸の悲劇は、戦争で真っ先に犠牲となるのは幼き命だという教訓も今に伝えている。

 政府は来年度にも海中に眠る対馬丸の再調査に乗り出す。遺品回収などへの遺族の期待は大きい。

 1997年の発見時には技術面や費用の問題から引き揚げを断念した経緯がある。今も困難な作業に違いはないだろうが、遺族の思いを考えれば方策を見いだしてほしい。

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