[社説][沖縄戦80年]10.10空襲 空爆の無差別性 今なお
沖縄タイムス+プラス / 2024年10月9日 4時0分
街は焼夷(しょうい)弾の炎に包まれ、壕は爆撃の振動でぼろぼろと崩れ落ちた。逃げ惑う人々は機銃掃射で次々と倒れた-。
80年前の1944年10月10日、南西諸島は米軍による大規模空襲に見舞われた。午前6時40分から午後3時45分ごろまでの断続的な攻撃は沖縄本島と周辺離島、宮古・石垣のほか大東諸島や奄美大島、徳之島にも及んだ。
標的は飛行場や港湾などの軍事施設だったが、爆撃は住民の頭上にも降り注いだ。兵士ら約1500人が死傷。死亡した668人の約半数は民間人だった。
旧那覇市の9割が灰じんに帰した空襲は、沖縄で初めての大規模な無差別攻撃だった。
太平洋戦争は41年12月8日、日本軍による米ハワイ真珠湾への奇襲攻撃などで始まった。新聞やラジオが繰り返し報じる戦果に、県民も沸き立った。
しかし約半年後、日本軍はミッドウェー海戦で大敗し、形勢は悪化の一途をたどる。44年6~7月のサイパン島の戦いは、この戦争で最初に大勢の民間人を巻き込んだ。太平洋のかなたで始まった戦争は、目の前に迫っていた。
一方、戦況が伝えられることはなかった。軍事・避難訓練が日課となっても「今日と変わらぬ明日」を信じていた住民は10.10空襲で初めて戦争の恐ろしさを知ったのである。
■ ■
米軍の目的の一つは、日本軍の後方支援を絶つことだった。約9時間に及ぶ爆撃は、県人口の1カ月分もの米をはじめとする、あらゆる備蓄品も燃やし尽くした。
これにより県内はまず深刻な食糧難に陥る。空腹の兵士たちは家々に芋をねだるようになり、戦闘が本格化すると強奪が相次いだ。
街を包んだ炎は住まいや学校、職場も奪った。
県は那覇市民に退避命令を発出。それまで疎開を逡巡(しゅんじゅん)していた多くの市民が、空襲に恐怖をかき立てられた。北へ南へ、着の身着のままの移動を余儀なくされたのである。
しかし、本島北部で待っていたのは飢えとマラリアだ。南部では約半年後、苛烈な地上戦で住民の多くが犠牲となった。
戦場となれば、逃げ場はどこにもなかった。
■ ■
空襲は無抵抗の市民を巻き込み、街を廃虚にする。
軍用機が戦場の主流となった1920年代には民間人や軍事目標以外の攻撃を禁じた「ハーグ空戦規則」が提案されたものの、有名無実化している。
非戦闘員への攻撃は国際法違反に当たる。昨年末にはロシアがウクライナ全土を一斉空爆し200人以上が死傷。ガザでも多くの命が奪われている。
無人機やミサイル開発により、空襲はより簡単に遂行されるようになった。県内でも米軍無人機の配備が進む。犠牲を広げる無秩序な兵器開発に今こそ歯止めが必要だ。
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