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タバコケースのおかげで私がいる 戦争と今をつなぐ弾丸の痕

おたくま経済新聞 / 2019年8月9日 7時0分

タバコケースのおかげで私がいる 戦争と今をつなぐ弾丸の痕

弾痕の残るタバコケース

 第二次世界大戦終結から、2019年で74年。戦場での経験を知る人々は年々減り続け、その証言を直接耳にする機会も少なくなりました。しかし、今なお当時を雄弁に物語るタバコケースの画像がTwitterに投稿され、反響を呼んでいます。

 このタバコケースの画像を投稿したのは、Twitterユーザーのmugiさん。普段は推しのミクスチャーロックバンド、King Gnu(キングヌー)のことなどをゆるりとツイートしていらっしゃいます。

 mugiさんが2019年8月6日未明、ふとツイートしたのは、祖父の遺品であるタバコケースの画像。その右隅には、ひしゃげた形の穴が空いています。

祖父のタバコケース…
これは私の祖父の鉄のタバコケース
終戦間近、当時青年だった祖父は日本陸軍の最前線にいた…
そして、銃撃戦の中、胸に衝撃が走る…敵に撃たれた…瞬間
「あ、死んだな…」と思ったらしい
そのまま地面に倒れて、ふと気づくと…生きてた。
その時… pic.twitter.com/Buy3erWODk

— mugi (@mugi80190880) August 5, 2019

 mugiさんによれば、終戦間近、陸軍兵だったmugiさんのおじいさまは、最前線で戦っていました。銃撃戦の最中、胸に衝撃が。相手の放った銃弾が命中したのです。その瞬間、おじいさまは「あ、死んだな」と思い、そのまま地面に倒れたといいます。

 しかし。ふと気づくと、自分は生きている!弾着の衝撃が走った左胸に手をやると、戦闘服の胸ポケットにタバコケースが入っていたことに気づきます。取り出してみると、そこには弾丸が刺さっていたのでした。

 おそらく体を伏せ、上半身を少し起こすような姿勢で銃撃戦をしていたのでしょう。タバコケースに残された弾痕から推定すると、米軍の7.62mm小銃弾(.30-06スプリングフィールド)。この実包における設計上の想定射撃距離は1000ヤード(約914m)なので、それに近い距離での戦闘だったのかもしれません。日本軍の主力小銃だった38式歩兵銃の三八年式実包(6.5mm×50)よりも威力は大きく、戦闘は劣勢だったことが想像されます。

 そして幸運だったのは、上体を傾けていたであろう態勢で前方から弾丸が飛んできたことにより、タバコケースの斜め方向、いわゆる「避弾経始」の状態で着弾したこと。タバコケース表面、弾痕の近くには、こすれたような凹みがあり、滑り込むように弾丸が入ったように思われます。もし正面からまっすぐ入っていたら、貫通して弾丸は体内に到達していたでしょう。

 タバコケースによって命拾いしたmugiさんのおじいさまは復員し、結婚。その翌年の8月6日にmugiさんのお父様が誕生したそうです。このタバコケースがなかったら、自分の子供も含めて私たちは存在しない、とmugiさんは感じているといいます。

 mugiさんのタバコケースの表面には、2種類の旭日旗(房付き・房なし)。その下には「十砲聯」の刻印があります。第十師団の野砲兵第十聯隊でしょうか。1897(明治30)年、現在の陸上自衛隊姫路駐屯地に発足した第十師団の部隊として誕生した野砲兵第十聯隊は、1940(昭和15)年8月に満州へと移駐します。mugiさんのお父様に確認を取っていただいたところ、おじいさまは「満州の方を怪我で入院しながら転々とした」そうだとのことで、部隊の配置と一致します。陸上自衛隊姫路駐屯地には、現在でも旧陸軍第十師団時代の建物が残り、現役で使用されています。

 国立公文書館 アジア歴史資料センターが所蔵する、防衛省防衛研究所の「比島方面部隊略歴」(Ref.C12122466100)によると、野砲兵第十聯隊は捷号作戦にともない1944(昭和19)年7月25日、当時駐屯していた黒竜江省の佳木斯(チャムス)で戦力の臨時編成命令がくだされ、8月5日に佳木斯を出発しています。

 その後朝鮮半島の釜山、九州の門司を経由して8月28日に台湾の基隆(キールン)に上陸。3か月ほど台湾の防衛任務についています。当初はレイテ島に派遣されるはずでしたが、すでに部隊が玉砕したために目的地をルソン島に変更、11月26日に高雄を出発し、1944年12月23日にフィリピンのルソン島サンフェルナンド(北サンフェルナンド)に上陸しました。この日、野砲兵第十聯隊を含む第十師団の主力を乗せ、北サンフェルナンドに向かった2隻の輸送船、乾瑞丸と大威丸のうち、乾瑞丸は入港直前に潜水艦の雷撃を受けて撃沈され、乗っていた部隊のおよそ半数にあたる1200人が戦死、積載していた武器弾薬の全てが失われています。

 フィリピンでは、山下奉文大将率いる第十四方面軍の指揮下に入った野砲兵第十聯隊(聯隊長:多勢清作大佐)でしたが、第十師団は歩兵第三十九聯隊が師団長の指揮下を離れてバターン半島に上陸、また輸送船江ノ島丸に乗船した部隊もルソン島北端のアパリに上陸するなど、バラバラの状態で戦闘に参加することになります。

 一番の激戦となったのが、1945(昭和20)年3月から5月にかけて展開された、フィリピン5号国道バレテ峠をめぐる戦い。弾薬などを輸送する輜重兵(しちょうへい)も銃を手にして戦闘に参加するなど、アメリカ陸軍第25歩兵師団を相手に戦いを繰り広げました。バレテ峠やその西のサラクサク峠、バターン半島基部のオロンガポで戦闘を行った野砲第十聯隊は、9月2日に終戦に伴い戦闘を停止。1945年10月から1947年12月にかけて逐次復員しています。フィリピン投入兵力のうち、20万人以上が戦死しています。mugiさんのおじいさまがタバコケースで命拾いした「終戦間近」の銃撃戦は、この頃のことのようです。

 mugiさんは幼い頃、引き出しに大事にしまってあったこのタバコケースを出してきては、この話を繰り返し聞きたいとせがんでいたそうです。おじいさまは嫌がることなく、そして必要以上にmugiさんを怖がらせることもなく、タバコケースを大事にさすりながら、銃撃戦の中で九死に一生を得たこの話をしてくれていたとか。

 現在、このタバコケースはmugiさんの手元にありますが、ご実家の方にはタバコケースに刺さっていた弾丸や、炸薬を抜いた砲弾なども残っているそうで、お子さんの学校で平和教育が行われる際には貸し出しもしているとか。このタバコケースに刺さっていた弾丸がもし、おじいさまの体を貫いていたら、mugiさんも、そのお子さんも生まれていないわけですから、戦争と現在をつなぐ大事な品といえそうです。

 筆者の母も沖縄から疎開する際、同じ船団の対馬丸がアメリカ軍の潜水艦ボーフィン(ハワイで記念艦として公開中)の雷撃で沈むところを目撃し、那覇の港で「(疎開先に)着いたらまた遊ぼうね」と別れた従姉2人を失っています。また、父もアメリカ軍の機銃掃射に遭い、地面に伏せたところ、自分から50cmほど離れたところに弾痕が並んでいた、という経験の持ち主。ほかにも爆弾が防空壕を直撃し、親戚一家が全滅したりと、ほんの少しの差で生と死が分かれる日常を過ごしてきた世代です。

 経験者が少なくなり、戦争が縁遠くなっていることは喜ぶべきことではありますが、今なお世界の各地では戦いが絶えません。戦争とはどういうことなのか、それを物語る品々で、改めて思いを巡らしたくなります。

<記事化協力>
mugiさん(@mugi80190880)

<参照資料>
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C12122466100「比島方面部隊略歴」(防衛省防衛研究所)
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C01004731700「満州駐屯陸軍部隊の編成、編成改正、稱号変更及復帰完結の件」(防衛省防衛研究所)
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13010698200「野砲兵第十聯隊 第二中隊陣中日誌 昭和十九年七・八月分 自七月二十六日至七月三十一日」(防衛省防衛研究所)
JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13010698800「野砲兵第十聯隊 第二中隊陣中日誌 自昭和十九年十一月一日至十一月三十日」(防衛省防衛研究所)
「軍人軍属短期在職者が語り継ぐ労苦(兵士編) 第2巻」(平和祈念展示資料館)

(咲村珠樹)

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