火災の際は囚人の「一時帰休」も!? 江戸の伝馬町牢屋敷跡をたずねる
おたくま経済新聞 / 2021年8月10日 18時0分
小伝馬町大安楽寺にある「江戸伝馬町処刑場跡」碑
日々変化し続ける東京。それでも、江戸の昔を感じさせるものが街のあちこちに残っています。その中のひとつ、東京メトロ日比谷線の小伝馬町駅近くにある、幕府が罪人を収容し、取調べから処刑までを行っていた「伝馬町牢屋敷」の跡をたずねてみました。
伝馬町牢屋敷は各種の罪を犯した囚人を収容した施設で、1613(慶長18)年ごろに常盤橋門外(現在の日本銀行周辺)から伝馬町に移転してきたといいます。当時は現在のような懲役刑がなかったので、刑務所というよりは警察署の留置場や、未決囚や死刑囚を収容している拘置所のような存在でした。
広さは2600坪(約8600平方メートル)あまり、敷地の周囲は掘割と練塀があり、囚人の逃亡や外部からの囚人奪還を防いでいました。東京メトロ日比谷線の小伝馬町駅3番出入口そばには、1954(昭和29)年11月3日付で東京都の史跡に指定されたことを記念する石碑があります。
牢屋敷のトップである囚獄(牢屋奉行)は旗本の石出家が務め、当主は代々「帯刀」を名乗りました。また、磔(はりつけ)や火刑(火あぶり)については、日光街道沿いの小塚原(現在の荒川区南千住)や東海道沿いの鈴ヶ森(現在の品川区南大井)の刑場で執行されましたが、打首については伝馬町牢屋敷で執行され、首切り役は代々山田浅右衛門を襲名しています。
牢は男性の場合、囚人の身分ごとに分かれており、女性は身分の別なく一括して「女牢」に収容されました。定員は350名程度と考えられていますが、最大で700名程度を収容できたようです。牢内では収容された囚人たちによる自治が行われており、そのトップが「牢名主」。有名な老名主では、幕末の蛮社の獄(1839年)で投獄された医者・蘭学者の高野長英がいます。
このほか伝馬町牢屋敷には、お芝居で有名な八百屋お七や鼠小僧次郎吉、平賀源内などが投獄されました。安政の大獄では吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎などが投獄され、刑死しています。
牢屋敷の敷地内には上水道の井戸がありましたが、牢には窓がなく換気が不十分なこともあり衛生状態も劣悪で、皮膚病などの感染症が後をたたなかったといいます。重病となった囚人は、主人や親を傷つけた逆罪人を除き、浅草と品川にあった「溜(ため)」と呼ばれる医療刑務所のような場所に移され、必要な治療が受けられました。
俗に「火事と喧嘩は江戸の華」といいますが、伝馬町牢屋敷も火災と無縁という訳にはいかず、たびたび大火により類焼に見舞われています。1657年に発生した明暦の大火(振袖火事)では、江戸城の天守を含む大名屋敷や市街の大半が焼失しましたが、伝馬町の牢屋敷にも火が及ぶに至り、当時の石出帯刀だった石出吉深は囚人たちが焼死するのを見捨てておけず、独断で囚人たちを期間限定で解放する「切り放ち」の処分を行いました。
この時、囚人に対して吉深は「大火から逃げられ、火が鎮まったならば下谷の『れんけい寺』に集まるように。この義理を果たしたならば、我が身に代えてもお前たちの命を助けよう」と言い渡したと、浅井了意が明暦の大火の様子を書き記した「むさしあぶみ」という書物に記されています。約束通り、大火後に下谷に集まってきた囚人に関しては、吉深が老中らに嘆願し、その罪を減刑したといいます。
これを機に、伝馬町牢屋敷では大火や災害によって囚人が敷地内で避難できない際、一時的に囚人を解放するという制度ができました。この制度は明治時代に制定された旧監獄法に受け継がれ、関東大震災などで適用された実績があるほか、現在の刑事収容施設法(刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律)でも第83条に規定されています。
伝馬町牢屋敷は1875(明治8)年、市谷谷町(現在の新宿区市谷台町周辺)に移転し、後の中野刑務所(現在は中野区立平和の森公園など)になります。伝馬町牢屋敷の跡地は高野山から東京にやってきた僧侶、山科俊海が牢屋敷で死んだ人々の菩提を弔うために寺院を建立。発起人として敷地を寄進した大倉喜八郎と安田善次郎の名にちなんで「大安楽寺」と名付けられました。
境内には、江戸伝馬町牢と刑場跡を示す石碑とともに延命地蔵菩薩像があり、台座には山岡鉄舟(高歩)の書がはめ込まれています。台座上段には戦没殉難者の霊菩提を弔う文言が記されているので、像は一旦戦時中に金属供出され、第二次大戦後に改めて安置されたもののようです。
また、伝馬町牢屋敷跡の一部には、明治の末に十思小学校が近くの大伝馬塩町(現在の中央区日本橋本町4丁目)から移転しています。十思小学校は関東大震災後、モダンな鉄筋コンクリートの復興小学校として建て替えられ、1990(平成2)年に東華小学校と統合され閉校するまで校舎が使われました。現在は中央区の複合施設「十思スクエア」として東京都の歴史的建造物に指定されています。
関東大震災の教訓をもとに建てられた復興小学校は、防火壁代わりとなる鉄筋コンクリート造の校舎と、周辺住民の避難場所となる校庭と小公園がセットになっており、十思小学校も隣接して十思公園が設けられています。十思公園には、江戸市中に時刻を知らせた「石町時の鐘」が1930(昭和5)年に移設されています。この鐘は罪人の処刑が行われる日には鐘の時間を少し延ばし、処刑を遅らせたという逸話で知られました。
十思公園内には、この地で刑死した吉田松陰を悼み、時世の句を刻んだ「松陰先生終焉の地」碑が建立されています。使われている石の裏面には、萩城下から運ばれたものとあります。
旧十思小学校は閉校後、中央区の複合施設「十思スクエア」として生まれ変わり、校庭に別館が建設される際、発掘調査によって伝馬町牢屋敷の石垣と上水道の木樋と井戸が出土しました。石垣と木樋、井戸は十思スクエアに移設され、展示されています。
十思スクエアの別館内には「中央区まちかど展示館」のひとつ「小伝馬町牢屋敷展示館」があり、伝馬町牢屋敷の復元模型が展示されています。発掘調査により、敷地内にも石垣と塀が作られていたという知見を反映した作りです。
江戸時代の牢屋敷や時の鐘から、昭和初期の復興小学校までを見ることができる小伝馬町の十思スクエア一帯。最寄りの地下鉄出入口は、東京メトロ日比谷線「小伝馬町」駅の北千住方面行きホームの改札に通じるエレベーター、階段の場合は4番出入口となっています。
<参考>
「むさしあぶみ」2巻 浅井了意著(国立国会図書館デジタルコレクション)
(取材・撮影:咲村珠樹)
Publisher By おたくま経済新聞 | Edited By おたくま経済新聞編集部 | 記事元URL https://otakuma.net/archives/2021081006.html外部リンク
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