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梅宮アンナ「育児放棄バッシング」の背景で起きていた「誰も知らない」これだけのこと#2

OTONA SALONE / 2023年6月15日 21時1分

「アンナ流」お言葉をもっと読む

モデル・タレント、梅宮アンナさん。20歳でファッションモデルとして芸能界にデビュー。ファッション誌『JJ』の表紙を飾り続け、CMにもひっぱりだこに。30代では活躍の場をTVバラエティ番組にも広げ、まさに老若男女問わずお茶の間の話題をさらい続けてきました。モデルとしてこれだけ全年齢に認知度の高い人は他にはいません。

 

プライベートでは、時代を象徴する人気モデルでありながら恋愛事情を隠さず、そのつど自分の気持ちをストレートに吐露するスタイルに賛否両論が集まり続けます。28歳で結婚、29歳で長女を出産、そしてシングルマザーに。

 

そんなアンナさんが47歳のとき、父で俳優の梅宮辰夫氏が死去。偉大なる父とカリスマの娘、親子でお茶の間に愛されたファミリーの「看取り」は世間の耳目を再び集め、最近では「親が亡くなった後の始末」についての壮絶な体験を語る機会を求められることも増えました。

 

百々果さんのお受験体験から、不登校の問題、お金の教育や自立して生きる人間にするための教育方針まで、文字通り七転八倒しながら取り組んできた数々の子育てエピソードを語ってくれたアンナさん。2話目は続いて、「アンナさん自身が育ってきた環境」のお話。

 

あれだけ愛した、大好きなパパだけれど。こまかな確執はたくさん、たくさんありました

――偉大なお父さま、梅宮辰夫さんとのお話も聞かせてください。孫も含めた三世代、どのようなご家庭だったのでしょうか。

 

妊娠中は、両親の住むマンションの隣の部屋を借りていましたが、娘の百々果が生まれてからは、実家で暮らすようになりました。そして娘が小学校低学年の頃に私は実家を出ました。

 

家を出た理由は、梅宮辰夫と梅宮アンナという個性の強い、ある意味似た者同士の二人が一つ屋根の下で暮らすことに無理が出てきたからです。

 

ティーンエイジャーの頃から、父とは取っ組み合いのけんかをすることもあったほど。自分なりの考え方、生き方がある二人ですから、家族で話し合って「お互いの心の平和のためにも私が家を出た方がいいか」という決断です。

 

といっても、実家から車で20分程度のマンションに移ったというだけで、家族としての暮らしは何も変わりません。日々父の作ったおかずが並ぶ食卓を家族全員で囲んでごはんを食べますし、ニュースを見ながら意見を交換するし、その日一日あったことをお互いに報告します。これは私が子どもの頃から続く梅宮家の習慣。娘が生まれてからも同じです。

 

百々果の部屋は、じいじの家、つまり私の実家に置いたままでしたが、彼女の気分によって、私の部屋で寝たり、自分の家で寝たりと気ままに楽しく行き来していました。

 

私が実家に泊まることもありましたし、娘のお稽古の送り迎えも引き続きしていましたし、本当に、生活が大きく変わったことってないんですよ。

 

もちろん、百々果はどっちに住んだ方がいいかも家族全員で話し合いました。学校から帰ってきて私が帰宅するまでひとりにさせるのも不安だし、泊まりの仕事などがあれば結局実家に泊まらせてもらうわけだし、百々果がかわいがっているワンちゃんたちもいるし、ということで、ひき続きじいじの家にいるということになりました。

 

百々果が生きがいとなっていた父は、孫と離れずにすむとあって大喜びです。

 

突然降って湧いた「育児放棄バッシング」。仕事が引き潮のように一気に消えていった

――いいですね。祖父母にたっぷり愛情を注いでもらうと子どもの精神はとっても安定するとも聞きますし。

 

この頃、私の仕事は絶好調でした。シングルマザーとして娘を育てると決めてから、いただいた仕事はなんでも引き受けるぞ! と覚悟を決めて突っ走ってきましたが、おかげさまで世間の方々や業界の方々に応援していただき、テレビのバラエティ番組やイベントを中心に大変忙しくさせてもらっていたんです。

 

あるとき、テレビ番組の企画で私の家を公開することになりました。実家ではなく私の部屋の方に来てもらうことにしたのですが、後々これが大変なことになるとは、当時は思いもよりませんでした。

 

テレビカメラの前で、私はなんの気もなく「娘は実家の方で暮らしているんですよ」と言いました。それが、なぜか「梅宮アンナは育児放棄をしている」「親に子どもを預けて自分は遊び暮らしている」となり、大炎上。

 

父も父で、プライベートを見せずに神秘的な大スターを演じる、かっこをつけるタイプではなく、なんでもあっけらかんと話してしまうタイプです。マイクを向けられると渋い顔をして「この間もアンナと孫が大げんかをした」なんて言ってしまう始末。内心、離婚したことを苦々しく思っているので「アンナは母親に向いていない」とかも言っちゃうんですよ。もうメディアは大喜びでそこを切り取って報道するんです。

 

私も私で、なんで育児放棄と言われているかをいまひとつ理解できていなかったので「思春期という難しい時期の子どもと離れて暮らすのも悪くないですよ。けんかして煮詰まってもお互い冷静になれるし。子育てしてるとストレスたまるでしょ」なんて言ってしまう。

 

「百々果にとってもじいじが父親みたいなものだし、大丈夫」なんて発言するものだから、火に油を注ぐ結果に。私としてはスープの冷めない距離の実家を頼って子育てしているという感覚だったんですけどね。

 

——2016年のことですよね。私の周囲にも、仕事が不規則なので普段は思い切って子どもを実家に預けて、週末に新幹線に乗って子どもに会いに行くシングル父母たちがいます。遅くなる日のごはんやお風呂は近所の実家にお願いしている人、子どもが祖父母の家で寝てしまったら、自分だけ家に帰るなんて人もいますし。

 

そうなんですよ。仕事柄、帰る時間も不規則ですし、泊まりがけの仕事もありますから、娘の安全のためにも必然的なスタイルだったと思います。実家を頼って子育てできることは、本当に助かりましたし、恵まれた環境でした。

 

今だったら、もっと、慎重に、上手に説明できたなとも思いますけれども、当時は、なぜ炎上するのかさっぱりわからなかったんです。

 

——梅宮家では、百々果さんを含め、誰もこのスタイルに不満を持っていなかったわけですよね?

 

はい。だって家族で話し合って決めたことですから。

 

——お父さまのおっしゃる大げんかの内容が気になるのですが。当時は、アンナさんの洋服があふれてしまい、百々果さんのクローゼットにまで服を入れたら百々果さんが怒って取っ組み合いのけんかになった。それが理由でアンナさんは家を出ることになったなんて言われていましたね。

 

実際そんなこともありましたけれど、それは、ささいなことというか、けんかのきっかけに過ぎないんですよ。

 

まさか、「携帯依存が過ぎる娘から携帯を取り上げたら、娘が大暴れした」「親に絶対言うべきでない汚い言葉を使って悪態をついてきたから厳しく叱った」「約束を守らず、その場をごまかすために小さなうそをついた。ここは絶対に親として引いちゃいけないと注意したら取っ組み合いのけんかにまで発展した」なんて、思春期真っ盛りの娘に恥をかかせるようなことをメディアに向かってベラベラ話せるわけないじゃないですか。

 

娘もバレーボールで毎日鍛えていますから、体も気も強いんです。お互い服が破れるほどの取っ組み合いを何度もしましたよ。父が、「やめろー!!!」って叫びながら間に入って止めたりと、大騒ぎです。

 

私と娘は、実際友人のような親子でしたけれど、でも友人ではない。親に生意気な口をきくとか、約束を守らなかったなどとあれば、厳しく注意してきました。結局、社会に出て恥をかいたり、不利益をこうむるのは彼女ですから。

 

——二世帯住宅で暮らしている友人が、やはり親子でぶつかった後、子どもに、おじいちゃんやおばあちゃんの家という逃げ場があるというのは、親子ともどもありがたいと言っていました。

 

本当にそう。私だって両親とは煮詰まりっぱなしでしたからね。でも家族って煮詰まるものですから、緩衝材になってくれる存在があると救われますよね。私と百々果の間の緩衝材には両親がなり、私と両親の間の緩衝材には百々果がなってくれる。もちろん百々香と両親の間に私が入ることも。

 

あ! あと、私が料理をほとんどしないことも育児放棄と言われたり、大バッシングされる理由でしたね。百々果が「お母さんは料理を作りません」と言ったら、百々果がかわいそうだって言われて。

 

実家の台所は父の聖域ですし。私も母も、料理はずっと父にお任せ。とはいえ、わが家は私が子どもの頃から週に3回は外食です。私が作るものといえば焼きうどんか、父が絶対作ってくれないハンバーグかカレーライスくらい。

 

私が料理に向き合い始めたのは、父が亡くなった後のこと。何十冊も残してくれたレシピノートとむきあって、父の夢だった料理本を作る作業を始めてからです。五十の声を聞く手前で、お鍋でごはんを炊いたり、卵焼きを作ったりするようになりました。

 

そういえば、料理本を作っていたときに、百々果が編集スタッフさんに「お母さんの料理で好きなものは何ですか?」と聞かれて、「焼きうどんとハンバーグ」と答えたんですって。思わず「私がそれしか作れないからじゃないですか?」なんて言ってしまったけど、すごくうれしかった。

 

『梅宮家の秘伝レシピ』梅宮アンナ・著 1,650円(10%税込)/主婦の友社

梅宮辰夫さんは遺言書を残さず、直筆のレシピ帖を家族に託しました。亡くなる直前まで、黒い分厚いノートにレシピをびっしりと書き込んでいたといいます。レシピ帖の数は20冊以上、およそ2000レシピ。その膨大なレシピ帖の中から、娘の梅宮アンナさんと妻のクラウディアさんが特に思い出深く、特においしかったレシピをセレクト。簡単なのに絶品な「レタス丼」や「マグロの漬け丼」、見た目も美しい「きゅうりだけの冷やし中華」など、梅宮家の秘伝レシピをどうぞ。

 

とどめは「大物司会者のたったひと言」だった。「うそか本当かはどうでもいい」のだと

――アンナさんは特に反論もせず、ひたすらバッシングを受け続けていた記憶があります。

私が育児放棄しているといううわさは、しばらくしたらおさまるかな、今は耐えるしかないのかなと思っていました。でも、あるワイドショーの大物司会者がこの話題を取り上げて「どうせ男を連れ込みたいから、子どもを親に預けとるんやろ」と言ったことでさらに大変なことになってしまったのです。

 

数日後、大きな仕事がキャンセルされたと連絡が入りました。急なことに驚いて担当の方に「本当の理由を教えてください」とお願いしたら、その大物司会者のひと言が原因だと。

 

私は事情を説明したのですが、その方ははっきりと「申し訳ないんですが、うそか本当かはどうでもいいんです。大切なのはイメージです。特に、地元でのあの方の影響力は大きいんですよ」と言われました。

 

今だったら、もっと上手に説明できたり、立ち回れたりするのかなとも思います。でも、当時は、朝から晩まで仕事と育児の両立に必死なのに、いったいなんでそんなこと言われないといけないの? 今、この瞬間、私、百々果の習い事の送り迎えしていますけど? 昨日は、娘のバレーボールの応援に行きましたけど? 今、私がやっていることは子育てじゃないの? と、腹が立ちすぎて混乱していました。

 

それにしてもその司会者の影響はすさまじく、いっとき仕事がガクンと減ってしまったんです。親子で暮らしていく生活費や娘の学費を稼がないといけないし、娘の将来のために貯金もしないといけないのにと焦りました。

 

助けてくれるパートナーはいませんから、生活はすべて私の肩にかかっています。きれいごとは言いません。なんでこんな仕打ちをされないといけないんだろうと思って、「あの司会者の口を縫ってやりたい!」ってしばらく怒っていました。他にも、別のワイドショーの司会者に「アンナちゃんは、母親じゃなくて女を取ったってことでしょ。認めなよ」と、わけ知り顔で言われたりもしましたね。

 

梅宮アンナは、父に生活費の面倒をみてもらっていたんだろうと思い込んでいる方も多いようなのですが、そんなことは、まったくないんですよ。この頃は、昔おつきあいして世間を騒がせていた彼の借金の保証人となったことで背負った借金も返していましたから本当に大変だった。

 

——借金の額はいかほどか、伺ってもいいですか?

 

8千万です。その借金をなんとか全額返し終わったのは40歳手前で、そのとき初めて父に報告しました。父は、まったく気づいていなかったようで驚いていましたね。

 

大手事務所をやめたのは、子どもの運動会に行きたかったから

――バッシングは本当に、一度火がつくとコントロールできなくなると聞いています。

育児放棄バッシングも、デビュー当時からお世話になっていた大手事務所にいたら、ここまで炎上しなかったかもしれません。やはり大手事務所には、そういった火消しのノウハウがあるんです。特に私を担当してくれていたマネージャーさんは優秀でしたから。

 

でも私は、娘の運動会に行きたくてその大手事務所をやめたんですよ。百々果が5歳の頃でした。

 

父、梅宮辰夫は、私が進級すると同時に手帳を開いて「アンナ、学校行事の予定表を持ってきなさい」と言うんです。そして、運動会や文化祭、授業参観などの予定を自分の手帳に書き写すと、事務所に「俺はここは仕事しないから。よろしく」って伝えるのが毎年の春の恒例。だから、私もそれが当たり前のことだと思って、仕事よりも娘の学校行事を優先していました。でも、事務所ともめたんです。

 

ある方の名前を引き合いに出されて、××は仕事を優先しているんだぞ、と言われもしました。でも私はとっさに「それじゃあ、私は何のために子どもを産んだのよ」って反論していました。毎日、必死に働いている一番の理由は子どものため。それなのに、子どもの成長過程を見られる、「行事見学という親にとっての最高のごほうび」がなかったら、少なくとも私は働くモチベーションが迷子になってしまいます。

 

事務所をやめるときは、離婚を決めたときと同じ。周囲の人全員に「バカだ」と言われて反対されました。

 

———そういえば、お父さまも子育てを優先してお仕事を失った、なんてお話ありましたよね?

 

そうそう! そうなんです。父は30代半ばでガンを患い、死も覚悟するよう医師に言われたとき、自分のこれまでの生き方をおおいに反省したんです。

 

母に聞くと、それまでは、朝6時半まで銀座で飲んで、7時から現場に入るという、いかにも昭和の大スター的な破天荒な生活をしていたんですって。そんな人が、もしまだ生きることができるならば「家族第一、子ども最優先の生活にしよう」と自分に誓い、それを見事に実行したんです。

 

私が2歳頃だったでしょうか。ある現場に、私を右手に抱え、左手には私のおやつや、万が一粗相をしたときの着替えなどを詰めたマザーズバッグならぬファーザーズバッグを持って入ったら、監督が怒ってしまったんですって。「スケコマシの役なのに、なんなんだおまえのその格好は! そんなやつと、この映画がやれるか!」って。

 

結果、自分のやり方を貫き通した父は、仕事を降ろされてしまったんです。でも「仕方ねえなあ」と思って終わりだったって。それこそ、当時は周囲から「バカだ」と言われていたかもしれませんよね。

 

——大きな後ろ盾をなくしても子どもを優先させたアンナさんと、まだ育児参加する男性など少数派だった昭和という時代に、仕事を失っても育児を優先させたお父さま。やはりどことなく生き方も似ていらっしゃる。

 

知らず知らずのうちに梅宮辰夫の生き方に影響を受けているんでしょうね。結局、百々果が高校生になる頃に父の体調が思わしくなくなったので、また家族全員一緒に暮らし始めました。そして父は晩年のほとんどを大好きな真鶴の別荘で、ひとりで過ごすようになりました。

 

母は都会が大好きでしたから、主に東京で私と百々果と生活。あれだって、切り取り方によっては「梅宮辰夫、晩年は妻子に見捨てられて寂しく独居!」なんて報道されたりする可能性もありましたよね。イメージっていくらでもつくれるんですよ。

 

このあと、不気味な現象が起きる家への引っ越しや、百々果の不登校など、またいろいろなことが起こるのですが、それはまた明日お話します。

 

取材・文/斯波朝子(オフィスCuddle) 撮影/廣江雅美

 

 

≪OTONA SALONE編集長 井一美穂さんの他の記事をチェック!≫

 

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