前田慶次「人の顔色は伺わない」?戦国一の傾奇者に学ぶ「力まず生きる」方法とは
OTONA SALONE / 2023年9月3日 10時0分
歴史上のえらい人たちって、みんな、天才に生まれついた上にものすごく努力をしたんでしょ、そんなの私が同じようにできるわけがない。何の参考にもならない……と普通は思いますよね。
よくよく人物を研究すると、意外にそうでもないんです。「結果的に成功した」人が後世に伝わっているのであり、ひとりひとりがやってることを見ていくと「あれ?結構お手本にしやすいかも…」と思うようなことも多々。
たとえば「日本一の傾奇者」として有名な前田慶次もその一人。
マンガやゲームなどに取り上げられ、世代を超えて愛される前田慶次、実際にはどんな人だったのでしょうか?『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(加来耕三・監修、ねこまき・画)から抜粋編集してご紹介します。きっと気が楽になりますよ!
傾奇者、それは「自分が信じる生き方」に忠実だった人たち
戦国末期から江戸初期にかけて、茶道や和歌に通じた風流人ながら、ド派手な格好をし、世間の常識を超えた行動をとる「傾奇者」といわれる男たちが存在しました。武士なら誰もが手柄を立てて出世したいと望む時代に、「オレはいいと思うことだけを信じ、好きなように生きるさ!」と自由であることや自分が信じる生き方に忠実であろうとした男たちです。
傾奇者の代表と評される前田慶次は、加賀百万石の大大名・前田利家の兄・利久の養子になった人物です。ところがその生涯や言動に関する記録は少なく、現在の慶次のイメージは、小説『一夢庵風流記』や漫画『花の慶次』で固まったものです。
では、実際の慶次は、果たしてどんな人だったのでしょうか? 慶次が養子に入ったとき、利久は尾張(現・愛知県西部)の荒子城主でした。しかし、利久が病弱だったことから、主君の織田信長が弟の利家に家督を譲るよう命じます。1569年、利久は城を退去し、慶次も城主の養子に入っていたのに、いきなり牢人(浪人とも)になってしまいました。
▶出世よりも友情優先!?
世間体や出世より、友情優先で生きる!?
その後の慶次の消息は長く不明でしたが、1581年頃になって能登と(現・石川県北部)一国の大名になった前田利家を養父・利久と訪ね、父子で7000石を与えられています(慶次はうち5000石)。しかし家禄を与えられても、慶次は前田家におとなしく収まっていられるタイプではありませんでした。「ああー、なんか楽しくねえなあ!」と、1590年の豊臣秀吉の小田原征伐が終わると、妻子を残して前田家を出奔します。
何にもしばられないで、風流な暮らしをしようと考えた慶次は、その後は京都で牢人生活を送りながら、里村紹巴や古田織部といった当時一流の文化人と交流しました。自ら連歌会を主催し、当代きっての文化人だった大名・細川幽斎(藤孝)もその会を訪れた記録があります。
文化人大名との交流のなかで、「当家の重臣として来てくださらぬか」と、好条件での誘いもたくさんあったといいます。ところが、慶次は男の友情で結ばれた会津(現・福島県西部)の上杉景勝の家老・直江兼続のために、わずか1000石で上杉家の家臣になります。
前田家時代の5分の1の知行であり、普通の武将ではありえない決断です。世間体や石高よりも、自分の「心の声」に忠実だったことがよくわかります。
▶「上杉家でもオレはただの傾奇者さ!」有名エピソードとは
「自分のやりたいように生きる」エピソードの数々
初めて上杉景勝に目通りしたとき、慶次は土のついた大根3本を持参して、「私はこの大根のようにむさくるしい者ですが、噛めば噛むほど味が出てまいります」と口上したといいます。
これに対して景勝は丁寧に礼を述べ、大根を受け取ったそうです。普通の大名なら、初めて会った目下の相手にこのような言動をされたら、「無礼者!」と怒りだすでしょう。
ご機嫌とりなどしないありのままの自分を平然と受け入れてくれた景勝の度量に慶次は惚れ込み、「天下にわが主は景勝様一人だ」と公言し続けたといいます。
関ヶ原の戦いで上杉家が会津120万石から米沢30万石に減封されたときも、新参の武士の多くは上杉家を去りましたが、慶次は留まり続けました。
▶いたずら大好き…こんな逸話も
上杉家に出仕していた時代、慶次が風呂(現在のサウナ)に出かけた逸話もあります。
慶次が脇差を差して風呂に入るので、ほかの武士たちは「くせ者か!?」と仰天。といって、びびって入らなければ「武士の名折」となります。まわりも、脇差を差したまま入りました。ところが慶次の脇差は、竹のヘラでした。湯気にあたりながら、そのヘラで足の裏の垢を落とし始めると、本物の脇差を持って入った武士たちは「だまされた!」と怒ったものの、刀はダメになっていたそうです。「滑稽にして世を玩び、人を軽んじける」(『常山紀談』*)という慶次の粋な性格は、晩年も変わりませんでした。
*儒学者・湯浅常山により、江戸時代にまとめられた戦国武将の逸話集。
妻子を残してカルチャー三昧、雇用先も石高ではなく友情で決めてしまう、ときにはいたずらめいたことをして周囲を驚かす……。武士は出世して少しでも多くの石高や地位を求めようとする時代に、慶次は異質な存在だったでしょう。
その痛快で軽やかな姿は、出世や世間体にとらわれず、力まず生きることのすがすがしさを伝えています。自分のやりたいように生きる様子が、まぶしいほどです。そうした慶次の魅力が、後年の創作作品にインスピレーションを与えたことは間違いありません。現代人は人の顔色をうかがい、まわりを気にして自分を見失いがちです。せめて心だけでも、慶次のようにさっそうと大きな構えで過ごしたいものです。
文中イラストは実際の色と異なることがあります
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