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子どもは欲しいけど「出産はけがらわしい」ものだった。授乳も夜泣きも、ぜ~んぶお任せ。平安貴族がうらやましい⁉

OTONA SALONE / 2024年7月1日 22時1分

*TOP画像/倫子(黒木華) 彰子(見上愛) 大河ドラマ「光る君へ」 26話(6月30日放送)より(C)NHK

 

『光る君へ』ファンのみなさんが本作をより深く理解し、楽しめるように、40代50代働く女性の目線で毎話、作品の背景を深掘り解説していきます。今回は平安時代の「出産と子育て事情」について見ていきましょう。

 

◀この記事の前編を読む◀『政略結婚は「お金持ちの娘」の宿命⁉ 平安時代、幼いころから親と離ればなれは普通だった?【NHK大河『光る君へ』#26】』__▶▶▶▶▶

平安貴族にとって出産はケガレ。子どもを授かったばかりの夫婦は行動を慎まなければならなかった?

平安時代、出産はケガレの1つとしてみなされていました。ケガレとは汚れた状態のことをいい、当時の人びとはこれによってよくないことが起こると考えていました。

 

当時、死や血はケガレと考えられており、これらと深く結び付く出産もケガレとしてとらえられていたのです。当時の女性の多くが出産で命を落としていたことや、生まれてきた子どもには死後の世界のケガレが残っているという考えも、出産をケガレとみなす背景にあります。

 

子どもを産んだ女性は産穢(さんえ)を受けたとされ、出産から1週間ほどは行動を慎まなければなりませんでした。父親が出産に立ち合うケースは少なかったようですが、出産を傍で見守った場合は妻と同様に産穢を受けたとみなされました。

 

ちなみに、当時は7歳になると社会の一員として扱われるようになり、男子は12~16歳くらい女子は13~14歳くらいで大人として扱われました。

 

 

令和は無痛分娩の無償化も議論されているが、平安時代はそれどころじゃなかった

現代の日本における妊産婦死亡率は3%以下ですが、平安時代においては5人に1人の女性が出産で命を落としたという説もあります。

 

当時の出産は座産(ざさん)でした。産婦を2人の女房が前と後ろで抱え、介添えします。

 

産婦人科医のような職業はありませんでしたが、産婆のような女性は当時からすでに存在したようです。

 

出産時には祈祷僧陰陽師も呼ばれました。貴族の中でも身分が高い家の女が出産するときは、世間に名の知れた祈祷僧や陰陽師が呼ばれたといわれています。

 

赤ん坊が子宮から出てくるまで、祈祷僧が祈祷し、陰陽師が呪文を唱え、女房たちも声をだして祈ります。外では魔除けのために米を撒いていました。

 

 

【産屋の儀式】赤ん坊は生まれてすぐに数々の儀式を受ける

平安時代、出産直後に行うさまざまな儀式がありましたが、それらは総称して産屋の儀式と呼ばれていました。へその緒を切ったり、実母の乳を含ませたりしていました。これらは現代にも通じていますよね。

 

誕生から3日目から9日目までは奇数日に産養(うぶやしない)が行われました。母子の幸せを産着を贈るなどしてみんなで願います。

 

また、誕生から50日目には五十日の祝い、100日目には百日の祝いが行われました。これらの日には、赤ん坊の口に餅を含ませる食い初めが行われます。

 

 

乳母が子どもを育てるのが一般的な平安時代。それでも親子の絆は深い

平安時代、貴族たちが我が子の養育にかかわる機会は限られていました。五位以上の貴族は赤ん坊1人につき1人の乳母(めのと)を雇っていたためです。乳母として雇われる女性は雇用主よりも1つ下の階層の女性が多かったそうです。乳母は子どもと親以上に近い関係になることも多く、子どもの成長にも深くかかわる存在のため人選は注意を払って行われました。

 

我が子に授乳する貴族の女性は少なく、授乳は乳母の役割でした(※1)。また、夜中に泣きわめく赤ん坊をあやすのも乳母の仕事です。清少納言は赤ん坊を夜にあやす乳母の苦労を察し、「苦しげなるもの。夜泣きといふものするちごの乳母」と『枕草子』に綴っています。

 

また、物心ついた子どもの教育や身のまわりの世話も乳母が行います。貴族の女性たちは幼い頃から和歌や琴などさまざまなことを乳母から教わっていました。

 

多くの貴族が自分を育ててくれた乳母に感謝の気持ちを抱いており、大人になって乳母を支える貴族も多くいたと伝わっています。乳母の老後の面倒を見る人や乳母の家族によい役職を与える人も少なくありませんでした。また、乳母の実子とは同じお乳を飲み、兄弟のように育つため、子ども同士も大人になってからも強いきずなで結ばれています。

 

とはいえ、母親が我が子を愛する気持ちはいつの時代も同じと思われます。例えば、源俊賢の娘は泣く我が子を膝の上にのせたり、抱きしめたりしてあやしていました。幼い我が子を寝かせていると、自分も寝てしまうこともあったそうです。彼女は赤ん坊が生まれてから100日ほど経つまでは、自ら中心になって育てていたと伝わっています。

 

また、一条天皇の母は藤原道長の姉・詮子です。当時において政は男の領域で、女が携わるものではありませんでしたが、一条天皇は政において母の意見を取り入れています。道兼が亡くなったあと、道長と伊周の間で勢力争いが起きましたが、道長が勝てたのは詮子が一条天皇に口添えしたことも関係するといわれています。いつの時代も、息子は母親の頼みをいい加減にはできないものなのかもしれませんね。

 

※1 平安時代は粉ミルクなどはなかった。乳母自身のお乳をお仕えしている赤ん坊に与える必要があり、乳母は出産間もない女性の中から選ばれた。お乳は無限に出るものではないため、実子の分が減ることもあったという。乳母の実子に対して少々かわいそうにも思うが、同じお乳を飲んだ者同士の絆は強く、出世に有利になるなど大人になってからよいことがあった。

 

参考資料

繁田信一 (監修)『平安貴族 嫉妬と寵愛の作法』‎ ジー・ビー  2020年

服藤早苗『「源氏物語」の時代を生きた女性たち』NHK出版 2023年

承香院『あたらしい平安文化の教科書 平安王朝文学『期の文化がビジュアルで楽しくわかる、リアルな暮らしと風俗』翔泳社 2024年

荻野文子『キーワードで味わう平安時代 人物&できごとガイドつき常識事典』‎ Gakken 2024年

 

≪アメリカ文学研究/ライター 西田梨紗さんの他の記事をチェック!≫

 

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