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【光る君へ】「メンタル強すぎ!」 和泉式部のスルー術って? 紫式部や藤原道長にも「男好き」扱いされ…

OTONA SALONE / 2024年8月18日 20時45分

大河ドラマ『光る君へ』に登場早々から奔放な言動で、紫式部をはじめ、まわりの女房たちの度肝を抜いた和泉式部。「恋多き女」としても知られる、平安時代中期の代表的な女流歌人です。まわりからの批判も強かったといわれますが、女性が生きづらい時代に自分軸を貫いた生き方で、後年、伝説の存在となりました。『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(加来耕三・監修、ねこまき・画/主婦の友社)から、SNS時代にも参考になりそうな、批判を気にしないそのスルー術をご紹介します。

 

紫式部にもあきれられた!?和泉式部の「あまりにも惚れっぽすぎる」恋愛体質

和泉式部は、冷泉天皇の第4皇子・敦道親王と自分との道ならぬ恋のゆくえを物語風につづった『和泉式部日記』の著者とされます。この作品は親王が亡くなったあと、一年間の喪に服していた1008年頃に書かれたといわれています。「夢よりもはかなき世の中を、亡き宮様のことを、嘆きわびつつ明かし暮すほどに……」といった書き出しで始まり、敦道親王との恋の顚末と、先立たれた親王への思慕が赤裸々につづられています。恋に生きた歌人として、後世に伝わる和泉式部。歌に加え、恋愛遍歴でも有名です。実は敦道親王の前には、その同母兄の為尊親王とも恋仲だったという、スキャンダラスな人だったのです。

 

和泉式部は敦道親王死去後、一条天皇の中宮で藤原道長の長女・彰子に仕えました。このときの同僚には、紫式部、和泉式部と併称される歌人の赤染衛門、伊勢大輔らもおり、宮中はまるで当代一流の才能による華麗な文芸サロンでした。恋の名手の職場は華やかだったのですね。しかし、女性ばかりの狭い職場……。いろいろな噂話も、飛び交ったことでしょう。何しろ和泉式部の奔放な恋愛は、自分は夫のある身で、妻のいる為尊親王に恋したことから始まったのですから。

 

紫式部は、『紫式部日記』のなかで、「和泉は、けしからぬかたこそあれ(感心しないところがある)」とチクリと記しています。藤原道長も「浮かれ女(め)」と呼んで面白がったそうです。華やかながら、なんだか居心地悪そうな宮仕えですが、噂を気にして心が折れてしまうような和泉式部ではありませんでした。

 

どこのTLマンガかな…まずは兄、つづけて弟と恋仲になった!?

和泉式部は995年頃、のちに和泉守(現・大阪府南西部の長官)に任官する橘道貞(たちばなのみちさだ)と結婚しました。道貞は地方官僚ですが、藤原道長の側近で「道」の字を与えられています。二人は、娘の小式部内侍をもうけますが、夫婦仲はだんだんとぎくしゃくし始めたようです。

 

そんな式部の目の前に、白馬のプリンスが現われます。それが冷泉天皇の第3皇子・為尊親王でした。周囲を顧みず熱を上げる和泉式部。同僚の赤染衛門らが夫と復縁するよう説得しますが、結局は離婚。ところがわずか1年(3年とも)後に、為尊親王が26歳で亡くなります。しかし翌1003年には、その弟の敦道親王としれっと恋仲になるのです。なんという恋愛バイタリティ……! しかも、親王が和泉式部を召人として邸に住まわせたため、正妻は出て行ってしまいました(のち離婚)。

 

略奪愛をした和泉式部ですが、「私は好きな人と暮らすだけ。まわりのことは関係ないわ!」というように、敦道親王とのラブラブ生活は続行。その後、ふたりの間には男子が生まれています。 しかし、運命のいたずらか、敦道親王も1007年に27歳の若さで死去します。

 

「恋多き」と言えばその通りですが、立て続けに想い人を失った和泉式部は辛かったでしょう。敦道親王への募る想いを筆に託し、『和泉式部日記』は執筆されたのです。

 

和泉式部が中宮彰子に仕え始めたのは、親王が亡くなったそのあとであり、恋に生きた彼女も30歳をすぎていたといいます。「深い趣のある手紙のやりとりはしたけど、彼女は感心しないところがあるわね」と紫式部に評されたのは、この頃でしょう。和泉式部の文章の才能は認めるものの、あまりの恋愛体質ぶりに紫式部もあきれてしまっていたのです。

親が親なら子も子だね! 最愛の娘も母に似て、恋多き女に育ちました

和泉式部の娘・小式部内侍も、母と共に中宮彰子に出仕していました。「恋多き女流歌人」なのは母親譲りで、小式部内侍は藤原家の高貴な男性と次々に浮名を流し、藤原教通(のりみち)、藤原頼宗(よりむね)、藤原範永(のりなが)、藤原公成(きんなり)など、多くの貴族と恋愛や結婚を繰り返しています。

 

しかし、1025年に藤原公成の子を産んだ際、この出産がもとで死去してしまいます。 まだわずか29歳(27歳あるいは28歳とも)でした。彼女の急死を周囲の人々は悲しみ、母である和泉式部は悲しみのどん底に突き落とされます。

 

和泉式部は1013年頃に藤原道長の家司・藤原保昌と再婚しており、娘の死去の時期には宮中を辞していました。夫が丹後守(現・京都府北部の長官)に任じられたため、任国に同行したといわれますが、娘の死を知った1025年以降は、その菩提を弔うために仏教に帰依します。

 

恋の道につき進んだ自分と、同じように生きて先立った愛娘・小式部内侍。和泉式部は宮廷の女官たちになんと言われようが、仏様ならわかってくださる、と思ったのかもしれません。

 

でも、自分を貫きとおしたから。「赤裸々気に恋をうたう和歌」で伝説の存在に

和泉式部のその後の人生は、あまり知られていません。情熱的な恋の歌は勅撰和歌集にも多数入集して絶賛される一方、紫式部や藤原道長ら同世代人評からくる「好色な女性」というイメージは消えることなく続きました。

 

 〽黒髪の乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき

 

これは『後拾遺和歌集』に入集した和歌です。「黒髪の乱れも気にせず横たわっていると、髪をかき上げてくれた人が恋しく思われる」という意味ですが、あふれる恋心を赤裸々に詠む作風で人々に愛されました。

 

 〽あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢ふこともがな

 

百人一首にもなったこの和歌は、「私はまもなく死んでしまうが、あの世への思い出に、今一度あなたにお会いしたい」という意味の和泉式部の代表的な歌のひとつです。江戸中期には、百人一首を通じて庶民の間でも和泉式部人気が高まりました。

 

「まわりに何を言われても、誰かが決めた常識よりも、自分の心に素直でありたい」そんな和泉式部の生き方は、周囲の批判はあっても、ある意味とてもまっすぐでした。自分の思うままには生きにくい世の中で「自分軸」で生き、恋の歌を詠み続けた和泉式部だったからこそ、全国各地にゆかりの地や墓が残るほど、伝説の存在になれたのでしょう。

 

他人から批判されたり陰口を言われたりすると、とかく凹みがちになりますね。でも、和泉式部はそんなあれこれに左右されることなく恋愛も歌の糧にして、後世に名を残したたくましさ、図々しさがありました。和泉式部流のスルー術、SNS時代の私たちにも参考にできるところがありそうです!

 

(文中イラストは実際の色と異なることがあります)

 

読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編

加来耕三・監修、ねこまき・画 1,540円(10%税込)/主婦の友社

逃げる(桂小五郎)、泣きつく(足利尊氏)、人まかせ(徳川家綱)、スルーする(和泉式部)、世間を気にしない(前田慶次)、投げ出す(上杉謙信)、がまんしない(坂本龍馬)、こだわらない(徳川家康)、嫌われ上等(石田三成)、日常生活を放棄(葛飾北斎)、趣味に生きる(徳川慶喜)、本業やる気なし(足利義政)…など、いろいろなパターンの「がんばらなさ」を発揮した25人を収録。

 

≪OTONA SALONE編集長 井一美穂さんの他の記事をチェック!≫

 

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