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「発達障害者らしく生きたらいいんだ」そう思えるまでに10年。特性に合った仕事を見つけて今は幸せ

OTONA SALONE / 2024年10月16日 21時0分

大阪府在住の石橋尋志さんは、27歳の時に発達障害だと診断されました。当時は、まだ「発達障害」という病名もあまり知られておらず、思いよらないことでした。ただ、その頃、石橋さん自身も職場でうまくいかないことが多くて悩んでいました。病気が原因だと知ってから、石橋さんは自助グループに入り、同じ発達障害の人と出会うことで新境地を開きました。

 

※本記事では、取材対象である石橋さんの言葉やお考えををそのままお届けしています。当事者としてのご発言であり、そこに差別的な意図は含まれていないことをご理解のうえ、お読みください。

 

【発達障害、生きづらさを考える #6前編】

どの職場も長続きせず、職を転々

石橋さんは社会人になると、どの会社でも長続きせず、3年くらい勤めては辞め、転職を繰り返しました。

「学生の時は忘れ物が多いとか先生から注意されるとかいうことはなく、私自身もごまかしてなんとかやってきた気がします。課題を出さないなど内申点に影響することはありましたが、勉強は並くらいの成績でしたし、大学にも進学しました。

ただ、達障害の人は社会に出て社会生活をしようと思うと苦労します。

大学を卒業した時は、リーマンショックの真っ只中。100社エントリーシートを出しても1社くらいしか面接してもらえませんでした。結局、自分でハウスクリーニングの会社を始めたのですが、ADHDなのでうまくいくはずありません。お客さんもつかず、借金だけが残ってやめてしまいました。」

 

当時は派遣が盛んだったので、石橋さんは派遣で固定電話の営業の仕事に就きました。

「新規開拓の仕事です。とにかく電話して、アポイントを取って会いに行き、契約を取る仕事でした。タウンページを見ながら上から順番に電話するのですが、ADHDの失敗にめげない特性もあってか、断られてもダメージを受けません。普通の人なら50件、100件でメンタルをやられてしまうところですが、次のことしか見えないので、はい次、はい次、はい次と電話できます。150件でも200件と平気で電話できるんです。数打ちゃ当たるので成績も上がり、正社員になりました。」

 

ところが、正社員になると、電話以外にもいろんな仕事をこなすことが求められました。

「電話もしなあかんし、見積もりも作らなあかんし、契約を取った後の進捗も管理しなあかん。一気に仕事ができなくなりました。契約は取れるのですが、電話の開通まで行くことができず、結果が出せないのです。
解雇されたわけではありませんが、自主退職を促すような空気になり、耐えられずに辞めてしまいました。2社くらい同じパターンで退職し、3社目の途中くらいの時に、『このままではいけない』と思って病院に行きました。」

 

 

診断されたが、「治療法はない」

shutterstock.com

石橋さんのお母さんは小学校の教員をしていたのですが、発達障害がテーマの研修会に出た時に、「これはうちの次男のことだ!」「あんた、これちゃうか?」、と本を買ってきてくれました。

「私生活でも忘れ物がとても多くて、約束をしていたのに忘れてしまうことも度々ありました。忘れ物はうっかりというレベルではなく、あらゆるものを忘れてしまいます。持っていくのを忘れるし、持っていくと持って帰るのを忘れてしまう。定期や財布、鍵、なんならカバンを置いてきたこともあります。衝動性や多動、注意欠陥もありました。」

 

石橋さんは自閉症の自助グループの人に教えてもらった病院を受診し、発達障害だと診断されました。

「医師に、『治療法はない』と言われて、『えー、そうなんや、これは自分で考えなしょうがないな』と思いました。母からもらった本の巻末に、アメリカには発達障害者の自助グループがあると書いてあったので、これはええやんと思い、ある発達障害の女性と自助グループを作りました。

治療法はないのですが、ADHDの薬が処方されました。それを飲むと8時間くらい頭が冴えるので、頭が冴えているうちに自己訓練をしてくださいと言われました。自己訓練は、自分がどんなミスをするとか、どんな時にミスしやすいのかということを自分で把握して、そうならないように、もしくはミスしてもひどいことにならないように準備をすることです。」

 

石橋さんは、その方法は正しかったと言います。

「当時も今も治療法がないのは変わりません。あの先生は、変に治せますとか頑張ろうよとか言わず潔かった。おかげで私は無駄にお金を使ったり治療法を探したりせずに、自助グループに入ることができました。その後、自分の自助グループを立ち上げました。」

 

 

自分の特性に合う会社に就職

shutterstock.com

診断がついてから2年後、石橋さんは、現在勤めている会社に就職しました。その会社は石橋さんの特性に合っていたそうです。

「職種と社風が私の発達特性とマッチしました。小さな5人くらいの建築会社なので、タイムカードがありません。いい意味でいいかげんです。遅刻しても文句を言われないし、早退しても途中で抜けても現場対応さえしていたら何も言われません。
建築の現場は40種類くらいの業種があるのですが、それぞれ完全に仕事が分かれています。大工さんは大工さん、左官屋さんは左官屋さん、僕は監督なので監督の仕事だけしていたらいいのです。

同じ建築でも、私には職人は無理なんです。でも、コミュニケーションが非常に得意なので、お客さんの要望を聞いて、それを職人さんに伝えてやってもらっています。
幼い頃から、よく喋る子、口から生まれた子と言われていて、それが自分の発達特性です。
建築には全く興味がなかったのですが、たまたま合いました。」

 

仕事は順調ですが、相変わらず忘れ物が多い石橋さん。ある工夫をして忘れないようにしています。

「定型者のように、決まった場所にものを置いておくというような方法は全く通用しません。
そのため、1週間同じズボンを履いて、同じ上着を着ます。絶対に服を変えず、持ち物は全部身につけています。カバンも持たず、全て持ち物は身につけています。そうしたらいちいち物を出さなくていいのです。鍵もなくすという前提で、5個も10個も作ります。携帯電話はポケットに入れないでホルダーで腰につけています。
日常生活を工夫しないといけないのでおしゃれはできないのですが、何かを手に入れようと思えば何かを手放さなければなりません。
物を落とすという前提、失くすという前提で、自分の特性に合わせた生活に組み立て直す、要は生き方を変えるということです。」

 

 

他の発達障害の人の話から「工夫のしかた」を見つける

このように石橋さんが障害を受容できたのは、ご自身が作った自助グループで、他の発達障害の人の話を聞いたからです。

「自助グループでいろんな人の話を聞き、他の発達障害の人も私と同じような失敗をしていていることに気づき、私の考えを改めようと思いました。

発達障害の人は発達障害者らしく生きなければならない。
どこかで定型者みたいになりたいとか発達障害を治したいとか健常者のような生き方をしたいとか思っていたのですが、そんな自分を捨て、定型者として生きていくことを諦める覚悟をしました。『アホはアホなまま生きて行ったらぁ』と。
30歳くらいの時になんとなく気づいてはいたのですが、はっきりと自覚したのは35~36歳の時のことでした。

自助グループで悩んでいる当事者の人にアドバイスする時は、『あきらめたら手に入るよ』と言っています。彼女が欲しい、定型者になりたい、ミスしないようになりたい・・・それを諦めた時にできるようになると。

発達障害を受け入れて、発達障害者なりの社会生活を送ると、『あの人はでこぼこがあるけど頑張っているね』、と評価されるようになりますし、何より自分が生きやすくなります。

ただ、私も障害を受容するのに10年かかりました。自分は年収500万もらえるはずだと思い込んでいる人が、年収300万で満足するには時間がかかるんです。500万の時には毎日頑張って、心身をすり減らして生きてきたけど、『あれ?なんや、300万で生活できるやん。お金とかいらんかったんや』と気づいた時に、初めて障害から解放されるんです。」

 

>>>専門医・岡田俊先生による解説
「ADHDの人が感じるの日常生活の困難。子どもと大人で、本人の対応に変化は生まれるのか?」 

岡田俊先生のここがポイント!

ADHDに伴う日常生活の困難が、子どものときと大人になってからと、どちらが大きいかという質問をすると、その答えは百人百様でしょう。

子どもの時には、様々な学習や受験、仲間関係、家庭生活などの課題を乗り越えていく必要がありますし、いじめなどの厳しい境遇を経験するかもしれません。そのような中で頼りになる大人や仲間に助けられた人もいれば、そうでない人もいるでしょう。
大人になると、自分に合った仕事が見つけられた場合には良いですが、仕事で求められるスキルは多様ですし、部署が変わったり昇進することによって適応状況も変わってきます。
家庭生活でも、子どもの有無や成長によって、夫婦に求められるスキルも変化していきます。

自分で何に困っているに気付いたり、必要な支援を求めたりするスキルは、大人のほうが優れています。
ただ、ADHDがある場合、こういったことを自分だけでやっていくのは酷であり、一定の周囲の理解や支援が必要なことが多々あります。このような配慮は、その人の力を最大限発揮するためには不可欠な、ちょっとした工夫です。

 

大人になってから、うまく適切な配慮を求めたり、支援を活用したりできるかは、子どもの時にどのように支えられてきたかという経験によります。
もし、ことごとく大人に見放されたり傷つけられてきたら、そもそも誰かを信頼したり、助けを求めたりすることはありません。子どもの時に、誰かに助けてもらったり、自分なりの工夫をしたりしてきた当事者は、支援を活用するのも得意ですし、苦しい状況に置かれたとしても、それを乗り切るノウハウを持っている・知っているということになるのです。これはその人にとっての強みだと言えます。

 

石橋さんの場合は、いろいろな苦労があり、また発達障害に対する周囲の認知が十分でなかったとしても、自分自身で様々な工夫をしてきました。
ご自身で気付いている場合も気付いていない場合もあると思いますが、何らかの配慮はされてきたのではないかと思います。社会に出てからは転職を繰り返すことを余儀なくされていますが、そのようななかで自分の特性と向き合い、同時に強みも見出すことができています。そして、自分なりの工夫もできています。また、当事者同士の仲間を見出せたことも、石橋さんならではの力だと言えます。

合理的配慮の必要性が言われていますが、これはその人の特性に合った環境の調整を行い、その人の力が発揮しやすい環境を作ることです。
発達障害のある人のために、周囲が我慢しなければならないとか、当事者を免責しなければならないという意味ではないのです。
確かに、その仕事を続ける限り、誰かが不足をカバーしなければならないこともあるかもしれません。しかし、業務内容を見直すことで、不足をカバーする必要がなくなったり、もっとその人の力を活かしたりすることのできる業務をお願いすることができるかもしれません。
そのためには、障害特性を当事者と周囲の人が共に知り、調整し合える環境づくりがまず大切だと言えます。

 

▶つづきの【後編】を読む▶診断されたのを機に障害を受容した石橋さん。特性に合った仕事に就くことができ、結婚して子どももできました。どのような結婚生活・育児をしているのでしょうか? __▶▶▶▶▶

 

 

【岡田俊先生プロフィール】

岡田 俊 先生

国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所知的・発達障害研究部部長/奈良県立医科大学精神医学講座教授

1997年京都大学医学部卒業。同附属病院精神科神経科に入局。関連病院での勤務を経て、同大学院博士課程(精神医学)に入学。京都大学医学部附属病院精神科神経科(児童外来担当)、デイケア診療部、京都大学大学院医学研究科精神医学講座講師を経て、2011年より名古屋大学医学部附属病院親と子どもの心療科講師、2013年より准教授、2020年より国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所知的・発達障害研究部部長、2023年より奈良県立医科大学精神医学講座教授。

 

 

 

 

 

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