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夫が口にした「廃業しようか」の言葉。地震の被害は、崩れたブロックだけでも1,500万円。妻が出した答えとは

OTONA SALONE / 2025年1月1日 12時1分

様々な価値観が多様化する昨今、「家族像」もそれぞれに唯一の在り方が描かれるようになりつつあります。この「家族のカタチ」は、私たちの周りにある一番小さな社会「家族」を見つめ直すインタビューシリーズ。それぞれの家族の幸せの形やハードル、紡いできたストーリーを見つめることは、あなた自身の生き方や家族像の再発見にもつながることでしょう。

今回ご紹介しているのは、石川県能登町に暮らす上野朋子さんです。

金沢市出身の朋子さんは、結婚後、ご主人が実家を継ぐことになったのを機に、能登半島の柳田地区へ。現在は、大学生・高校生・小学生の3人の姉妹を育てながら、「農事組合法人のとっこ」の代表の妻として、家業のしいたけ作りに精力的に関わっています。

 

【前編】では、家族5人が3か所バラバラで被災した震災当日と、再会までの数日間の様子をお届けしました。

今回の中編では、大打撃を受けた家業の「椎茸栽培」に向き合いながら見つけた家族のカタチをご紹介します。

 

 

【家族のカタチ #6(中編)|能登編】

湧水と薪でお風呂を沸かし、交代で食事当番。避難所生活に「大きなストレスを感じなかった」理由とは……

能登町に戻ったあと、日中は避難所で助け合って生活、夜は自宅で寝る生活をつづけた。

大地震から2日後、1月3日にようやく家族5人が合流できた朋子さん一家。自宅はまだ新しかったことも幸いし一部損壊に留まったものの、ライフラインは断絶した状態。そのため、同じ地域の人々と避難所で生活を共にすることになりました。

「我が家は倒壊の危険がないと判断して就寝時は自宅で過ごしていましたが、何せ電気も水道も止まっている状態。日中は近所のみんなが集まる避難所で、助け合って生活していました。ご飯作りや洗い物はそれぞれ交代制。合間にそれぞれ家に戻って片づける、という毎日でしたね。

震災直後は皆、それぞれが地域のためにできることをしていた。上野さん一家は、出荷予定だった椎茸を避難所や近くの老人ホームに提供。

自衛隊によるお風呂が開設されたのが地震発生から10日後だったので、それまでは近所の家に残されていた古い薪風呂にみんなで水を運んで、交代で入ったりもしましたよ」。

 

山の湧水を汲んでお風呂に運び込み、火おこしと薪の番をするのが男性の役目。炊事周りは女性の役目。

「まるで時代が巻き戻ったようですよね(笑)。でも、気づけばごく自然に、そんな役割分担が生まれていました。

私が暮らす地区は、もともと近所同士の仲がいいんです。地区対抗の運動会も一致団結しますし、ふだんから皆を仕切ってくれる人など……それぞれの得意分野も以前から分かり合えていました。それぞれが自分のできることを引き受け、互いにそれを理解しあえていたおかげで、大きな揉め事もなく避難所生活を送れていたのだと思います」。

 

時に笑い話まで交えながら、当時を振り返る朋子さん。さらにお話を聞いていくと「共同生活につきものの大きなストレスはあまり感じなかった」と言える、もう一つの理由が見えてきました。

近所に住む従妹と仲良しの三女。自衛隊の方々は必要なものを毎日聞いてくれるなど、とても親切にしてくれたそう。

「この期間って、ある意味では現実と向き合うのを先延ばしできた時期でもあったんですよね。

たとえば避難所生活の最中は、椎茸の栽培ハウスは被害を受けたまま、相変わらず手つかずの状態。震災直後に状況を確認した夫からは『お手上げだ』と聞かされていましたから、彼がその現実を一番認識していたはずなんです。ところが、避難所で過ごす夫に、深く考え込んだり悲観したりする様子は特には見られませんでした。

避難中は仕事なんて何もできないですからね。細かいことを考えず、水を汲んで火を起こすことに集中すればいいという選択肢のなさが、彼の心を一時的に軽くしていたんだと思います。

――家族以外の人間との共同生活より、その先に待っていた家に帰ってからの生活と仕事の方が、よほど大変でした」。

 

 

生活も仕事も、自分で立て直すしかない。突き付けられた現実を前に抱くそれぞれの思い

足の踏み場もない、被災直後の自宅の様子。電気が復旧していない中、日中、明るい時間帯に少しずつ片づけをしていた。

震災から日がたつにつれ、近所の人々と手を携えながら生活していた避難所にも徐々に変化が表れ始めました。親類がいる金沢方面に二次避難する人や自宅での生活再開を目指す人が徐々に増え、避難所は2週間ほどで解散することに。

 

「家族だけの生活の方が気楽だと思われがちですが……あの時は、むしろ逆。自分のことは全部自分で、という現実は大きな負担でした。

これまで当番制だった食事作りは1日3食、断水がつづく中、自分で準備しなくてはならないし、洗濯は近所の洗濯機や山水が引かれている場所を借りにいくなど不自由な状況で、手間も時間も取られます。ちょうど子どもの学校が再開する時期でもありましたから、その準備をしながら”新生活”に対応するのはさすがに大変な毎日でした」。

 

朋子さんの暮らす地域は降雪地帯。「震災後のガタガタな雪道を通って出かけるのは怖く、負担がさらに増していました」と当時を振り返ります。

「何よりストレスだったのが、余震です。”余震”といっても、震度5レベルのものもザラでしたから……。せっかく片づけたものがまた落ちてくるし、何より元日の揺れが蘇り、余震のたびに大きな緊張に襲われるんです。その繰り返しに『さすがにいい加減にしてくれ』と言いたくなる瞬間もありました」。

 

「共感」はしても「同調」はしない。悲観する家族の隣で立ち上がった先に拓けた震災後の道

出荷準備等で使用していた作業場は全壊、10月になって公費解体された。

落ち着きを取り戻すには程遠い状況の私生活。その一方で、大きな被害を受けた家業の椎茸栽培の立て直しも、待ったなしの状況でした。夫・誠治さんが代表をつとめる「農事組合法人のとっこ」には朋子さん夫婦と義母の他、9名の従業員を抱えています。何より、椎茸は生もの。多くの課題が山積していました。

 

「自宅での生活再開後、改めてハウスの被害の現実を突き付けられた夫は、ひどい落ち込みようでした。『何から手をつけていいかわからない』と途方に暮れていましたね。

我が家の8棟のハウスでは、椎茸の“畑”にあたる菌床ブロックの大半が地面に落ちてしまいました。ブロックが大きな衝撃を受けると椎茸は発育不良になり、出荷できなくなるものも多いんです。

崩れ落ちで使えなくなった菌床ブロックを前に立ち尽くす夫・誠治さん

落下分のブロックだけでも実損は1,500万円以上。それに加えて棚の崩壊などもありました。いくつか生き残ったブロックがあるとはいえ、ライフラインの復旧までは高品質な商品の栽培も難しい。もし復旧したとしても、仕入れたブロックでの椎茸の培養に5カ月は必要です。絶望に近い気持ちになるのも、無理はなかったと思います」。

菌床ブロックから生えている収穫間近の“のとっこ椎茸”(最近、撮影したもの)

良質な椎茸作りには、「1年中秋を保つ」ようにするための温湿度の管理、ベストな時期での収穫に、収穫後の冷蔵管理など、毎日の繊細な手間が必要なのだそう。そんな状況とは対極にある現実に打ちひしがれる誠治さん。ところが朋子さんが選んだ向き合い方は、『その気持ちを理解しつつも、それに”同調”はしない』というものでした。

 

「夫や義母は、『廃業しようか』なんてことも口にしていました。でも私にしてみれば、訳が分からない。だって、『絶対大丈夫やろ』って思っていましたから。

夫と義母は、物事をとても丁寧に考える慎重派。品質の高い商品と取引先との信頼を育んでこられたのは、その思慮深さがあったからこそだと思っています。それに対して、私は考えるよりも突き進むタイプ。

被災した現実を前に、夫・義母と私の気持ちには、大きな温度差があったんですよね」。

当初は、大量の椎茸を裏庭に捨てていた。

その温度差が、見事に功を奏します。

「避難所で暮らしていた2週間ほったらかしになってしまった椎茸は、収穫時期を過ぎて大きく開ききった状態。味は良くても見た目もわるく袋にも箱にも入らず、本来は捨てるしかありません。――でも、被災した山盛りのしいたけを廃棄する義母の姿を見たときに、『何とかならんかな』って思ったんです。

それでひらめいたのが『復興しいたけ』のネット販売でした。『こんなお化けみたいな椎茸やけども、欲しい人いますか』と呼びかけてみたら……全国の方から注文が殺到したんです。

慌てて『お母さん、捨てんとこ! 欲しいって言っとる人おるから、売ろう』と義母の手を止めました(笑)。そこからは出荷に追われる日々でしたね」。

崩れた棚に登りながら、生き残ったしいたけを収穫した。

気持ちの温度差を、言葉ではなく行動で示した朋子さん。すると、こんなご褒美まで――。

「過去に大きな震災を経験した熊本や東北から購入してくださる方がものすごく多かった。そういう方が購入の際に書き込んでくれる『 いつか必ず再建できるから頑張ってください』というコメントは、私たちにとって本当に心強い、希望の光でしたね。

さらに、しいたけを受け取った方から『おいしかった』というコメントがたくさん届いて……。『お母さん、みんなめっちゃおいしいって喜んでコメントくれとるよ』 と、義母と一緒に喜びました。

売ってよかった。家族全員で悲しい場所に留まらないでいてよかった――そう思いました」。

そのがんばりを後押しするように、被害を心配した取引先からもボランティアの申し出が続々と入ったのだとか。

「まだまだ夫は落ち込んでいましたが、そのお声に甘えさせてもらうことにしたんです。

崩れた棚を直したり、使い物にならなくなった菌床ブロックを捨てたり……震災後の“片づけ”はこれまでの積み重ねをリセットするような作業ですから、メンタルへの負担がとても大きいものでした。それをみなさんが引き受けてくださり、さらに多くの支えがあることに気づき直せたのでしょうね。夫も徐々に元気を取り戻しました」。

ハウス内の片付けに、取引先の方々をはじめとしたボランティアの皆さんが続々と駆けつけてくれた

未来を見つめられるようになった誠治さんを、朋子さんはさらなる行動で支えます。

クラウドファンディングで、みなさまからの支援を募ろうと提案したんです。

今回の震災で被害を受けたのは私たちだけではありませんし、もっと甚大な被害を被った方もいますから、もちろん葛藤はありました。でも、生活と事業を再建するのが、私たちが今やるべきことだと思ったんです。家族、従業員、お客さまのため――そんな思いで決断しました」。

椎茸の収穫後、毎朝、袋詰めや出荷作業をしている朋子さん。

「誰かに相談したり頼ったりするのをためらうようなプライドがないんです」と笑う朋子さん。”復興しいたけ“のネット販売もクラウドファンディングも、特別に知識はなかったものの、震災前から培ってきた周囲とのつながりを辿り、その分野に明るい友人に相談して実現したのだといいます。

それぞれの性格と考え方のデコボコを活かしながら未来を切り拓いた朋子さん一家。落ち込む家族の傍に腰を下ろして目線を合わせるのではなく、一人でも立ち上がり新たな可能性を示す――それが、あのとき朋子さんが選んだ「家族のカタチ」でした。

元の作業場で義母と一緒に。地震の3か月前に撮影。

 

▶つづきの【後編】を読む▶震災後の子どもたちの変化や、震災から1年を迎えた今思う「家族のカタチ」とは? __▶▶▶▶▶

 

≪ライター 矢島美穂さんの他の記事をチェック!≫

 

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