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舞台に立たなかった「伝説の歌手」 【平井久志×リアルワールド】

OVO [オーヴォ] / 2024年8月21日 12時0分

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 韓国の「伝説の歌手」、金敏基(キム・ミンギ)さんが7月21日に亡くなった。73歳だった。胃がんステージ4と診断され、闘病中だったという。日本では、一部メディアで簡単な訃報が伝えられただけだったが、韓国では今も、彼が残したものへの尊敬と感謝の言葉が続いている。

 金敏基さんは1969年にソウル大学絵画学科に入学した。元々は画家志望だったが、大学に入ると音楽活動を始めた。朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の3選を可能にする69年の憲法改正から本格化した政治的激動は、金敏基さんの人生にも大きな影響を与えた。71年に代表作「朝露」を含む音盤を発表したが、翌72年に朝露は禁止歌となり、レコードは全て押収された。金敏基さんの歌が解禁されたのは、87年6月に民主化宣言が出た後だった。70年代から80年代にかけて「金敏基」という名前は「抵抗歌」の象徴だった。

 金敏基さんは民主化までの長い歳月を当局の監視の中で農夫として、工場労働者として過ごしながらも創作を続けた。だが、歌手なのに、ステージに立つことを恥じらい、「朝露」も、友人の歌手、楊姫銀(ヤン・ヒウン)さんに提供し彼女の代表曲となった。

 筆者は全斗煥(チョン・ドゥファン)政権時代だった83年から1年あまり、韓国に語学留学したが、延世大学近くのレコード店に行くと、金敏基さんの作品を集めた海賊版のテープがこっそりと売られていた。そんなふうに、若者たちの間で彼の歌は聴かれ続けていた。80年代の韓国の民主化運動を現場で取材したが、その中で最も歌われたのは金敏基さんの歌だった。

 筆者が金敏基さんと直接会ったのは98年末に詩人、金芝河(キム・ジハ)さんに紹介された時だった。金芝河さんの作品を日本で紹介し、救援運動の中心的な存在だった中央公論社の宮田毬栄さんが初めて訪韓するので、お前たちが協力して歓迎しろという金芝河さんの命令だった。金敏基さんはソウル大学在学時代から金芝河さんの弟分のような存在で、73年には金芝河さんの戯曲「金冠のイエス」の全国巡回公演に参加し、その挿入歌の作詞・作曲などもしていた。

 筆者は初めて「伝説の歌手」と会ったのだが、金敏基さんは芸術家とは思えないほど実務的な人で、宮田さんの訪韓日程を実に誠実に準備してくれた。

 そして、とてもシャイな人だった。金芝河さんは怒りや不満を激しく吐露するようなところがあったが、金敏基さんは自身を「後ろで仕事をする人間」と称し、はにかむような笑みが魅力の人だった。

 その時、金敏基さんが創設したソウルの大学路にある小劇場「学田(ハクチョン)」でロングラン公演中だった「地下鉄1号線」を観覧させてもらった。原作はドイツの作家によるものだったが、中国の朝鮮族の女性がソウルにやって来て「地下鉄1号線」の中でさまざまな庶民と触れ合う様子を描いた金敏基さんによる事実上の創作ミュージカルだった。

 92年に4枚の音盤を出すが、それも「学田」の運営費をひねり出すためだった。彼は98年には歌手というよりはミュージカルの戯曲家、演出家になっていた。

 2021年、新型コロナウイルス禍の中で、同僚や後輩の歌手たちが「朝露」50周年を祝うコンサートをソウルで開いた。照れ屋の金敏基さんはメッセージを寄せたが、舞台には立たなかった。ずっと「後ろで仕事をする人」を貫いたが、その作品は今も、韓国の人々の胸に残っている。金芝河さんは22年に亡くなり、金敏基さんも逝った。寂しい。

【KyodoWeekly(株式会社共同通信社発行)No. 33 & 34 からの転載】

平井久志(ひらい・ひさし)/ 共同通信客員論説委員。2002年、瀋陽事件報道で新聞協会賞、朝鮮問題報道でボーン・上田賞を受賞。著書に「ソウル打令 反日と嫌韓の谷間で」(徳間文庫)、「北朝鮮の指導体制と後継 金正日から金正恩へ」(岩波現代文庫)など。

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