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幽玄の闇 【コラム カニササレアヤコのNEWS箸休め】

OVO [オーヴォ] / 2024年9月7日 12時21分

海を照らす半月(筆者撮影)

 能のような出会いをすることがある。

 去年の夏も暑かった。私は音楽家の友人と、SUP(スタンドアップパドルボード)をやろうといって江ノ島を訪れていた。サーフボードの上に立ち、パドルで漕(こ)いで江ノ島の周りを一周するのだ。

 江ノ島に向かう電車の中で、私のスマホに連絡が入った。サーフィンスクールのスタッフが発熱し、ボードが借りられなくなったとのことだった。われわれは当初の目的を失い、宙ぶらりんのまま江ノ島駅に放り出され、ダラダラとコーヒーを飲んだり知り合いのお寺で羊羹(ようかん)を頂いたりして酷暑をしのいだ。

 夜になり、さすがに少しは海に入って帰りたいということで、江ノ島の裏手にある岩場へ向かった。たしかそこに、岩が削れて小さなラグーンになっている所があったはずだ。湘南で育った私は昔そこで飛び込みをした記憶があった。

 陽(ひ)が沈んで岩場は薄暗くなっていた。子どもの頃の記憶を辿(たど)り、迷い迷ってやっと見つけた飛び込み場所にはひとりのおじさんが立っていた。大きな腹に赤い海水パンツを引っ掛けたおじさんはトルコ系の顔をしている。われわれに気が付くと「あそこは安全、あっちは浅いから危ない」と流暢(りゅうちょう)な日本語で教えてくれた。暗くて表情は分からない。月明かりとそれを反射する波だけに照らされて、砂が凝(こご)ったような姿だった。「9月になったらクラゲが出る」と言い残して、おじさんは闇に消えた。

 われわれはおじさんに教えてもらった場所で飛び込みを楽しみ、疲れたら海に浮かんで星を眺めた。流れ星が時折流れ、波が泡となって消えるシュワシュワという音だけが水に浸(つ)かった耳に聴こえていた。

 先日同じ友人と蛍を見に行った時も、そんな出会いがあった。せっかく酒と楽器を持って田んぼを訪れたのに蛍がいない、今日も暑かったから蛍が弱っているのかもしれない、とトボトボ歩いていると、「あっちの方がよく見える」と暗がりから声をかけられた。ついていくと、黄色い菖蒲(しょうぶ)の花の周りを舞い遊ぶ蛍たちの姿。ずっと昔からこの辺りで蛍を見ているのだ、君たちに見せられてよかった、と言い残して、まだ蛍が出ているのにおじさんは闇に消えた。

 旅行きの最中、ふと誰かが現れて案内をする。能では後にその人の正体が、死んだ貴人や花の精霊だったと分かるのだが、おじさんはいつまでもただのおじさんだ。幽玄の闇に消えたおじさんに、そっと手を合わせるばかりである。

かにさされ・あやこ お笑い芸人・ロボットエンジニア。1994年神奈川県出身。早稲田大学文化構想学部卒業。人型ロボット「Pepper(ペッパー)」のアプリ開発などに携わる一方で、日本の伝統音楽「雅楽」を演奏し雅楽器の笙(しょう)を使ったネタで芸人として活動している。「R-1ぐらんぷり2018」決勝、「笑点特大号」などの番組に出演。2022年東京藝術大学邦楽科に進学。

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