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【PLAYBACK PARIS】柔道・瀬戸勇次郎、崖っぷちから掴んだ結実の金メダル

パラサポWEB / 2024年9月27日 11時59分

表彰式では金メダルを何度も触って確かめた。世界ランキング1位の瀬戸勇次郎は、日本柔道界の期待に応え、金メダルを獲得。君が代が流れると、何度も目頭を押さえた。

「これが欲しくて、ここに立ちたくてやってきたので」

溢れてくるものを抑えられるわけがなかった。ここにたどりつくまでの日々を思えば……。

表彰台で目頭を抑える瀬戸と寄り添うライバル 苦しかったパリまでの道

濃密な3年間を過ごしてきた。

初出場で銅メダルを獲得した東京大会後、視覚障害者柔道のレギュレーションが変更になり、あおりを食らった一人だ。瀬戸が戦う男子66㎏級がなくなり、階級変更を余儀なくされた。新設されたクラス分けは、J2(弱視)に落ち着いた。だが、クラス分け導入の影響で国内外の多くの選手が資格不適合となり、姿を消していった。そんななかで瀬戸も不安な日々を過ごしたに違いない。

万全のコンディションではなかったという瀬戸。そんな中でフィジカルトレーニングの成果が活きた

階級は73㎏級へ。大学院進学にともない、生活環境も変わる中で増量に励んだが、なかなかうまくいかなかった。1年半前のインタビューでは「急な増量でケガが増えたような気がする」と明かしており、東京大会時に81㎏級だった選手たちもいる階級で「相手が大きく感じる」と戸惑いを感じていた。

それでも前を向くことをやめなかった。競技の普及に力を注ぐ身でもある。金メダリストになりたかった。

転機が訪れたのは、2023年8月。パリ2024パラリンピックの出場権に関わる重要な世界選手権(イギリス・バーミンガム)で一回戦負け。世界ランキングはパリ大会出場圏外に落ちた。「なにかアップデートしないと」。試合直後はまだ悩んでいたが、パラリンピックは1年後に迫っていた。帰国後すぐにマシンジムで体づくりを始めた。器具を使ったトレーニングには、大学時代に肩を故障した苦い記憶があったが、専門家のもとで筋力アップに取り組む道を選んだ。

成果が表れたのは12月のグランプリ大会。パワーをつけた瀬戸は、技を決め切れるようになり、そこから一気に駆け上がった。

攻める柔道で勝ち抜いた 貫いた背負い投げの戦い

初戦は台湾の選手に開始19秒で一本勝ち。続く準決勝はリトアニアの選手から技ありを奪った後、体落としで一本。決勝は、ギオルギ・カルダニ(ジョージア)と対戦することになった。

先取したのは瀬戸。「早いうちから攻めよう」と決めていた。開始6秒、得意の背負い投げで技ありを奪うと、背負い投げに向かう中で相手の足を払って合わせ技一本。

「(磨いてきた)背負いがあってこそ、かかった技。うまくタイミングが合いました」

畳に一礼した瀬戸

勝利の瞬間は派手に喜ぶことなく、笑顔も見せなかった。いつものように畳をおりるときに深々と頭を下げた。

瀬戸は振り返る。

「あの瞬間にもっと感情が出ると思ったんですけど。でも、やっぱり(表彰式で)メダルと君が代となると(感情を抑えられなかった)」

2度目のパラリンピックで金メダル獲得。その心境を問われると、こう語った。

「ただただしんどかった。本当にしんどいことをやってきて、金メダルじゃないと割に合わないので本当によかった」

「これだけの観客がいる前での試合は初めてで圧倒された」と瀬戸。日本の応援が心強かった

1年前、世界選手権の敗者復活戦でカルダニに敗れたことから始まった逆転劇。パリ大会では「因縁の相手」カルダニに勝利して喉から手が出るほど欲しかった金メダルを手に入れた。逆境こそ力の源だと考える者もいるかもしれない。しかし、瀬戸は言う。

「あそこ(世界選手権)で負けたからしんどい時期が深くなった。勝てていたら、もっと楽にこの場所に来られたのかもしれない」

瀬戸がいかに迷いと不安を断ち切り、必死に前を向いてきたか。表彰式の涙が雄弁に物語っていた。

ついに表彰台の中央に上がった

text by Asuka Senaga

photo by Takamitsu Mifune

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