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天皇杯・日本車いすバスケットボール選手権大会、熱闘の連続に見えた50回の軌跡

パラサポWEB / 2025年2月7日 6時32分

クラブチーム日本一を決める日本車いすバスケットボール選手権大会。第50回記念大会となった今回、第1次予選会から56チームがエントリーし、16チームが本大会が行われた東京体育館に集結。熱闘が繰り広げられる中、若手から過去の大会でも活躍したベテランに印象に残る大会、そして大会を通して感じる変化について聞いた。

準決勝のNO EXCUSE戦を戦う鳥海。来季はヨーロッパ挑戦を表明している 大会の歴史を映す師弟対決

前回に続いて埼玉ライオンズとの決勝を制し、3連覇を達成した神奈川VANGUARDS。MVPを受賞した鳥海連志は、天皇杯に初出場したときの喜びを振り返る。

佐世保車椅子バスケットボールクラブでプレーしていた鳥海連志(写真は、内閣総理大臣杯争奪 第42回日本車椅子バスケットボール選手権大会)

「初出場は中学生、いや高校生だったかな。この大会に出られるようになるまでに数年かかったのでうれしかったですし、ただただうまい人が多いなという印象でした。たしかそのときは、(神奈川VANGUARDSの前身である)パラ神奈川スポーツクラブを初戦で破って、千葉ホークスに負けたのかな。印象深い大会です」(鳥海)

同チームで、前回MVPの丸山弘毅は、大会前から前所属チームの長野車椅子バスケットボールクラブ(長野WBC)と準々決勝で対戦することを楽しみにしていた。

「長野WBCには高校1年から在籍し、本当にお世話になりました。2018年に神奈川に移籍する際は『自分が決めたことならがんばれ』と送り出していただいて。以来、初の対戦となるので、先輩方に成長したパフォーマンスを見ていただきたいという思いが大きいですし、僕にとっては決勝以上にがんばりたい試合です」(丸山)

長野WBCは、1969年に創設。1971年の第2回大会から1975年の第4回大会まで3連覇した古豪で、今大会は久しぶりの出場となった。丸山が師と仰ぐ往年の名シューター、奥原明男が思い出深い大会として約20年前の大会を挙げる。

「たしか宮城MAXと3位決定戦で戦った年だったと思います。藤本怜央と得点王争いをしたんですよ。途中まで私がリードしてたので、もしかしてと思ったんですけど、怜央に抜かされちゃいました」(奥原)

パラリンピックは、選手として1984年のニューヨーク/ストークマンデビル大会、1992年のバルセロナ大会、1996年のアトランタ大会に出場したレジェンドの奥原は、現役選手でもある

今大会でも奥原の名シューターぶりは健在。フル出場した初戦の神戸STORKS戦では、持ち点1.5のローポインターながら6得点を決め、丸山が待つ準々決勝進出に貢献した。

現在、JWBF技術委員会委員長も務める奥原は、初戦の弟子のプレーを見て、愛あるダメ出しをする。

「昔はどんなことをしてもシュートを入れてくるスタープレーヤーがいたのですが、今は『自分が』っていうプレーヤーが少なくなっちゃったのが僕としてはさみしいです。弘毅のチームも仲良しこよしでボールを回してばかり。練習で自信のあるシュートを磨いて、ノーマークなら打てばいいし、そういうシューターになってほしい」

準々決勝で古巣と対戦する神奈川VANGUARDSの丸山

その言葉が響いたのだろうか、師弟対決となった準々決勝でスターティング5としてコートに立った丸山は、自身1本目のシュートを3ポイントラインから決めてみせた。一方の奥原も、最終盤まで司令塔として精度の高いパスを繰り出すとともに、積極的にシュートを打ち続け、12得点をマーク。大会全体としてチャンスを決め切れないシーンが多く、日本全体の課題として得点力不足があることが見て取れただけに、奥原のプレーにまだまだ学ぶべきことがあると思わされた試合だった。

観客数は増えたが……

その奥原と、アトランタ大会では選手として、また北京大会ではヘッドコーチと選手としてパラリンピックをともに戦ったのが、1985年創設の名門・ワールドバスケットボールクラブ(ワールドBBC)の大島朋彦だ。ワールドBBCは、1997年の第26回大会で準優勝すると、1999年の第28回大会から2002年の第31回大会まで4連覇した。大島はその中心選手として、第28回で得点王、同大会から3回連続MVPに輝いている。

「ワールドBBCで日本選手権に出始めたのは、1996年か97年ごろじゃなかったかな。当時から変わったことといえば、お客さんがたくさん入るようになったことでしょうか。あと、プレーのスピード感も今の方があると思います」(大島)

1996年のアトランタ大会から2008年の北京大会まで日本代表の大黒柱としてパラリンピックでプレーした大島

一方で、変わっていないこともあると語る。

「車いすに乗ってバスケットをする、という感じになると面白いと思うのですが、バスケットより車いすが先に立ってしまって、狭いところでプレーすることが多いのは、昔から変わってないなと思います。でもバスケットなんだから、本当はもっと5人のバランスを意識して、うまくスペースを使った戦い方ができるといいですよね。健常と同じバスケットをしたうえで、スクリーンやホールドといった車いすの特性を生かしたプレーができれば、観る人にもっと楽しんでもらえるのではないかなと思います」(大島)

初戦では当初、コート脇からチームを鼓舞していたが、途中から出場。司令塔としてチームに落ち着きを取り戻して勝利へと導いた。準々決勝のNO EXCUSE戦ではスタートから出場し、アグレッシブなプレーでチームをけん引していた。

11連覇を支えた“熱”

長野WBCとワールドBBC以外にも、1986年第15回~1988年第17回を3連覇した奈良ディアー、2度の3連覇以外に単年での優勝経験も豊富な千葉ホークスなど、過去には圧倒的な強さで日本選手権を制してきたチームがいくつもある。その中にあって、圧倒的な存在感を放つのが、2008年第37回大会から11連覇という偉業を達成した宮城MAXだろう。その全盛期を知る男、高橋浩則が指揮官として東京体育館に戻ってきた。

「僕が宮城MAXに入部したのは2002年で、藤本怜央と同期なんですよ。当時は藤井新悟が選手としてチームを熱く引っ張っていましたし、ローポインターでも怜央に負けたくないとがんばっている選手たちがいて、チーム内競争も激しかった。練習頻度も多くて、約束事をつくらなくても、流れの中で自然とうまく連携できていました」(高橋)

藤本怜央ら日本代表を多数擁し、11連覇した宮城MAX(写真は、天皇杯 第47回日本車いすバスケットボール選手権大会)

高橋が印象に残っているのは、2006年の第35回大会だ。

「千葉ホークスに負けて準優勝だったんです。でもあの悔しさが、2008年の初優勝とそこから始まる連覇につながったと思います」(高橋)

高橋は2022年に選手を引退し、代表兼ヘッドコーチに就任。2023年以来、2度目の舞台となった今大会は、初戦敗退となった。

「やはり緊張感は普通の大会とは違いますね。選手も緊張していましたが、自分もメンバーを出すのに点数オーバーしちゃいましたし、いやもう本当に選手のことばっかり言ってられないです。一から鍛え直しです」

現ヘッドコーチの高橋は、パラ神奈川スポーツクラブから移籍後、2002年から2022年まで選手としてプレーした(写真は、内閣総理大臣杯争奪 第43回日本車椅子バスケットボール選手権大会)

1970年に始まった日本車いすバスケットボール選手権大会。第50回記念大会は神奈川VANGUARDSが3連覇を果たしたが、古豪の奮闘もあれば、新勢力の台頭を期待させる好ゲームもあった。来年はどのチームが決勝の舞台に上がり、どんな戦いを見せてくれるのか。歴史は続いていく。

text by TEAM A

photo by X-1

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