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“金メダル”へ導いた視覚障がい者マラソンのガイドランナー・安田享平

パラサポWEB / 2021年9月4日 18時14分

パラスポーツの“今”をお届けするスペシャルムック『パラリンピックジャンプ』のVOL.5発刊を記念して、過去に本誌で取り上げたパラスポーツを支える人たちのストーリーをパラサポWEB特別版(全3回)でお届けします。

第3回は、陸上競技のガイドランナー・安田享平。視覚障がいの選手の目の役割を担い、選手が安全に走れるようレースをリードしながら共にゴールを目指すガイドランナーとして、世界一のメダルを獲得するまでの物語に迫る。

※この記事は『パラリンピックジャンプ』VOL.2(2018年11月発行)に収録されたマンガ『職人つくりびと』〜パラスポーツを支える人やモノ〜、#2ガイドランナー編の原作を元に制作しました。


ガイドランナー・安田享平の契機

安田「(マラソンは長距離ランナーとしての集大成だ。もっと早い記録を出すには……)」

「おーい!安田!」

トラックを走りながら考えごとをする安田を、不意に順天堂大学・澤木啓祐監督が呼ぶ。

安田「(何だろう……?)」

駆け寄る安田に澤木は唐突に話を始めた。

澤木「今年の8月にアトランタでパラリンピックがあって、視覚障がいの選手が出場するからお前が伴走してやれ! いいな、任せたぞ!」

安田「はい! わかりました!」

刷り込まれた体育会系の宿命から、監督から言われたことに躊躇なく返事した安田だったが、引き受けたものの我に返ってただただ焦る。

安田「(アトランタ? パラリンピック? 視覚障がい? 伴走? ……ってオレは何をしたらいいの?? 汗)」

――安田享平。1967年生まれの当時28歳。

中学まで野球をしていたが、学校選抜の駅伝大会に学校代表として出場して優勝&区間賞を獲得。大勢の前で表彰されることに味を占めて高校入学後は陸上部に入ったが、なかなかタイムが伸びなかった。卒業後の就職も決まった高校3年の秋からタイムが伸び、自己ベストを連発する(今思えば、長距離は時間をかけないと伸びないので…… ※後日、本人談)。

『まだやれる!』と手ごたえをつかんだ安田は、地元の新日鐵君津製鐵所(現・新日鐵住金君津製鉄所)に就職し、その後も走り続ける。

友達がスキーや海に女の子と遊びに行こうが、三交代勤務で夜勤があろうが、とにかく走り続け、ついに就職して4年目、東日本縦断駅伝の千葉県代表に。

その活躍が認められて、一般社員から実業団選手になって千葉県君津から新日鐵八幡陸上部へ加わり、千葉と福岡を行き来する生活をしながら練習して、ニューイヤー駅伝をはじめとする各種駅伝大会等に出場。実力、実績を伸ばしていく。

そしてその年の春、多くの駅伝を走った安田は競技生活の最後はマラソンで勝負したいという思いから八幡の陸上部を離れ、地元でトレーニングする日々を送っていた。そして縁があり、地元の千葉県にある順天堂大学陸上部の練習に参加させてもらっていたのだ。そんな安田に降って湧いた伴走の話だが、安田はそれまでパラリンピックという言葉も聞いたことがなかったし、視覚障がい者が伴走者と一緒に走ることも知らなかった。

そもそも、視覚障がい者は運動したくても危険が伴うため、一人で走ることができない。そこで見える人が伴走することで視覚を補い、危険を回避するのだ。日本においては、1983年に第1回 全日本盲人健康マラソン大会が開催されるなど、早くから伴走の文化が存在していた。

しかし、時代が進むについて楽しみのジョギングから、順位を競う競技スポーツの色を帯びてきて、パラリンピックでの戦いも厳しさを増していた。

安田が伴走することになったのは当時40歳の柳川春己で、フルマラソンを3時間切るペースで走るブラインドランナーだ。

柳川は病気から8歳で失明し、30代に入ってからランニングを開始。

そして、当時からさかのぼること4年前、1992年のバルセロナパラリンピックに出場し、マラソンでメダル獲得を狙うも、途中でガイドが脚に痙攣を起こしてしまい6位にとどまった。悔しい思いをした柳川は、とにかくパラリンピックでのメダル獲得に飢えていたのだ。柳川ほどの走力を持つ選手を42.195km伴走するためには、『2時間20分を切るランナーが必要』と考えた日本盲人マラソン協会・理事(現日本ブラインドマラソン協会・理事長)の澤木が柳川のガイドランナーを探し、安田に白羽の矢が立ったのだ。

メダル獲得のために早いガイドランナーが欲しい柳川と、駅伝に区切りをつけてマラソンに取り組みはじめた矢先の安田。運命のようなタイミングでアトランタパラリンピックの3か月前にコンビを組むことが決まり、まずは2人で大会に出場することに。

盲目のランナー・柳川春己との出会い

柳川が住んでいるのが佐賀県。安田が千葉県で、大会が行われるのが群馬県だった。柳川が飛行機で来るとのことなので、安田が羽田空港まで迎えに行くことに。

安田「(そろそろ出てくるころかな……)」

柳川が出てくるのを待っていると、空港の職員に連れられて白杖を持つ男性が歩いてきた。

安田「あの…、柳川さんですか?」

安田が恐る恐る声をかける。

柳川「おお!安田さんですか? 柳川です、よろしくお願いします!」

安田「柳川さん、あの、奥さんは一緒じゃないんですか……?」

柳川「ああ、女房がよろしくってよ! がははは!」

安田「(目が見えないのに一人で飛行機に乗ってくるなんて……)」

空港職員「お知り合いの方ですね。では私はここで失礼します」

空港職員が立ち去り、安田と柳川だけが残される。

いきなり取り残された安田はどうしていいかわからない。

安田「柳川さん、いきなりで本当にすいません……。僕、どのようにして柳川さんを連れて歩いたらいいかわかりません……」

正直に謝った安田に、柳川は慣れた口調で話しかける。

柳川「私が安田さんの二の腕をつかむから半歩前を歩いて誘導してくれよ。あと空港は人がたくさんいるから狭いところを通るときは手を引いてくれ」

言われたとおりに安田はなんとか柳川を連れて電車で移動し、新幹線に乗って群馬県まで移動した。

伴走の難しさを知る

安田にとって柳川との行動は初めて体験することばかりだ。障害者手帳を持っていれば、本人と介助者が半額で新幹線に乗れることも先ほど知った。前橋の旅館に着いた安田と柳川は翌日のレースに備え、身体を動かすことに。伴走と言っても、ただ横を走ればいいのか、それすら安田にはわからない。

柳川「お互いこのロープを持って走ればいいんだよ」

安田「……」

輪っかになったロープを柳川から見せられ、安田は唖然とした。

安田「(こんなものを持って走れるのか……)」

考えても仕方ないので柳川の言った通り、まずはお互いロープを持って走ってみる。しかし、案の定うまく走ることができない。

互いにロープを持って走るということは腕の振るタイミングを完璧に合わせないといけない。腕の振りを合わせるということは、脚の運びや歩幅も合わせて走るスピードを調整する必要がある。もちろん、見えない柳川ではなく、見える安田が合わせないといけない。

もう一度試しに走ってみる。が、またしてもうまくいかなかった。

原因は、安田が腕を身体の内側に向けて振っていただからだ。それによって柳川の身体が安田の方に引っ張られ、走ることができなかった。

結局、その日はいくらやってもうまく走ることができなかった。

柳川はいつも練習で伴走者と走っているとはいえ、伴走者の動きを見ることはできないし、安田はそもそも伴走者を見たことがない。見えない、見たことがない者同士があーだこーだ言っても正解がわからないからできるはずがない。改めて安田は引き受けた伴走の責任の重さを痛感したが、レースは翌日に迫っている。どうしようもないので、安田と柳川はロープを使うのを諦めて手を繋いで走ることにした。

後のシドニー2000パラリンピックでの柳川(左)とガイドランナーの安田(右)

ロープを使った伴走がうまくいかなかった安田と柳川は、大会では5000mのレースに臨んだ。

レースが始まると手を繋いで走るコンビは快調に飛ばし、途中、安田がラップタイムや残りの距離を柳川に教えながら走って、当時としては日本新記録となるタイムでフィニッシュした。

※手を繋いで走るのは、現在ではルール違反となる

練習を重ね、信頼関係を築いていく

いきなり高いポテンシャルを示したコンビだったが、それ以降は安田が佐賀まで行って一緒に走ったり、山中湖で合宿したりと、住んでいる場所は違えど一緒に走る機会を作っていった。

安田にとっては、柳川と走ることで『視覚障がい者に伴走するノウハウ』を会得することが必須だった。最初の大会ではロープを互いに持って走ることができなかったし、そもそも安田がどんなに早くても柳川が実力を引き出すことができなければ、タイムもメダルも望めない。

しかし、当時、伴走者のノウハウは体系化されていなかった。そのため、安田は柳川と走ることで、ベストなガイドのやり方を自力で見出さなければならなかったのだ。

一方で、柳川は心身ともに最高の状態でアトランタに向かえるよう、それまで以上に激しいトレーニングに臨んだ。というか、安田が課した。

安田はエリート街道からほど遠い道を歩み、夜勤がある生活の中でもストイックなトレーニングを自身に課して、最終的には日本最高峰の駅伝レースであるニューイヤー駅伝のランナーにまで登りつめた。安田流のトレーニングは、練習量にしてざっとそれまでの倍以上。柳川は月300キロ程度の練習量だったが、6月と7月の2か月で約1400キロを走破し、そのうち約半分を二人で走った。

さらに、柳川は安田のランナーとしての知識を少しでも得ようと毎日1時間も電話をかけたという。携帯電話がない時代にだ。

それでも仕事前の早朝6時や、仕事や練習後の夜10時に電話をかけ、練習内容からランニング理論までありとあらゆることを安田と話し、貪欲に吸収しようとしたのだ。

ひたむきに練習して心身ともに充実していく柳川。

その一方で、「オレは金を獲るんだ。とにかく金を獲るんだ」と強い思いを常に口にし、周囲に言いふらし続けた。

勝負の厳しさを知っている安田は「レースは何が起こるかわからないんだ! そんなこと軽々しく言うんじゃない。勝負なんだから負けたらどうするんだ!」と柳川に苦言を呈したが、それでも言い続けた。

柳川「オレは最強のガイドを見つけたんだ! 絶対に金を獲るんだ!」

柳川は常にマラソンのことを考え、その集中して取り組む姿勢は、数々のトップランナーを見てきた安田が驚くほどだったという。

柳川「……だから負けたらガイドのせいだ(笑)」

そんな冗談が言えるのも信頼の証か?

世界一の景色

圧倒的な練習量をこなし、最高の状態でアトランタパラリンピックのマラソンスタートラインに立った2人。

しかし、8月のアトランタはとにかく暑かった。大会最終日、マラソンのスタートの号砲が鳴り、各選手が灼熱のコースに飛び出していく。

《選手村から競技場に移動するバスの中》

柳川「安田さん、お願いがある」

安田「何ですか?」

柳川「金メダルって言い続けてきたけど、とにかくメダルを獲りたいんだ。だから前には2人までで、それ以上は行かせないでくれ」

安田「……わかりました」

このとき安田は柳川の本気を改めて感じた。

練習中は常に本気で取り組んでいたのはわかっていた。「金を獲るんだ」と言い続けた思いも知っていた。

そんな柳川が「何とかメダルを」と安田にお願いをしてきた。

安田「(決して弱気になったわけじゃない。柳川さんもわかっているんだ。レースの厳しさを)」

柳川のレースにかける想いを再確認し、安田も一層気合が入る。

レースは当時の世界記録保持者であるイタリア選手をマークする作戦だった。しかし、レース序盤からコロンビアの選手とメキシコの選手が凄いペースで飛び出した。一方で、マークしていたイタリア選手のペースは一向に上がらない。

10km付近まで来たときに、先行する選手たちと柳川の差はかなり開いてしまっていた。

安田「(経験上、300mくらいの差が距離として目で把握できる限界だ。今の差はもうそれに近い。追いかけるべきか、このままイタリア選手をマークするべきか……)」

考えた末に、ここで安田は決断を下す。

安田「柳川さん、前を追おう!」

ペースを上げる柳川にイタリア選手は付いてくる気配すら見せない。

16km地点で柳川はトップグループに追いついた。

そのまま柳川はトップと並走するが、中間地点付近で転倒してしまう。

想定よりも早いペースで走って追いついたのに、再び差が開く。

焦る柳川に、安田が声をかける。

安田「大丈夫だ。上りで追いつけるから焦らず走ろう」

その言葉の通り、25km地点で再びトップをとらえる。

安田「(25km過ぎに長い下りがあることは事前に頭に入っていた。トップを走っている選手はもう暑さで疲れてるな。ここでペースアップしたら離すことができるぞ!)」

安田「柳川さん、行くぞ! 勝負をかける!」

柳川「わかった、頼む!」

そのままペースを上げて30km過ぎまで走り、後方を見るともう追走する選手ははるか彼方でつぶれて見えた。

安田「(やった! このまま逃げ切り体勢に入るぞ!)」

と思ったのもつかの間、高い気温とオーバーペースがたたって今度は柳川がバテ始めていた。

安田「(マズい!)」

35kmを過ぎるとさらにペースは落ちた。

安田は柳川に発破をかける。

安田「後ろから選手が見えてきた! 追われてるぞ!」

もちろん、選手は追ってきていないし、視界に入らない距離を引き離してある。

また暑さ対策で給水所に氷水の入った魔法瓶を置いておいたことが大いに役立った。

氷水をかけて柳川の身体を冷やすことができたのだ。

一方で、ヘロヘロの状態でも柳川は安田を気遣った。

柳川「安田さんも水を飲んでくれ……」

4年前はガイドの痙攣で思うような結果が残せなかった。

ガイドを気に掛けるのは当然なのかもしれない。

しかし……

安田「ふざけるな! オレは水なんか飲まなくても楽々完走できる! オレの心配より自分の心配をしてくれ!」

安田も必死だった。

安田「(ガキの使いじゃないんだ! オレは柳川さんを勝たせるために来たんだ!)」

柳川は必死に走り、安田は必死に柳川を走らせてゴールが近づいてくる。

そして、後続が見えないほどの差を保ったまま、ついに競技場にたどり着いた。競技場に入った途端、安田の目には開けたスタジアムの風景が飛び込んできた。

オリンピックほど観客はいなかった。

でも、「(ああ、これが世界一の景色か)」と感じた。

安田は後続との差を確認。

安田「柳川さん、もう大丈夫だ。客席に手を振りなよ」

柳川が応援に来た家族や知り合いに手を振る。

そして、安田は柳川がゴールする姿を見ながら自身もゴールした。

安田「(ああ、良かったなぁ……)」

歓喜よりも安堵が先に来た。

本来なら柳川と歓喜を爆発させるところだが、もう柳川にそんな力は残っていなかった。

力を使い果たした柳川は医務室へ直行。

それでも表彰式には元気な笑顔を見せてくれた。

念願の世界一、金メダルを手にした瞬間だった。

アトランタ1996パラリンピックでの柳川と安田

このときの柳川のタイムは2時間50分56秒。自己ベストだ。

灼熱のアトランタで、マラソンの自己ベストを記録したのは柳川だけだったという。そんな柳川の力を限界まで引き出した安田。ガイドランナーとして、ともにマラソンを走りながら柳川の走りやコース状況、そして他の選手の走りを見極めて勝負を仕掛けて金メダルを手繰り寄せた。一言に伴走と言っても、ガイドに求められる役割は想像以上に多かったと言える。

表彰式が終わり、金メダルを手にした柳川は安田に尋ねる。

柳川「すごい苦しかったのに、なんで後ろとどれくらい離したか本当のことを教えてくれなかったの?」

安田「だって教えたら柳川さん気を抜きますよね?(笑)」

たった3か月で作り上げた急造コンビだが、お互いの本気がぶつかり、絆が生まれた濃厚な3か月だった。

「強さ」を最大限に引き出すガイドランナーの役割

現在、男子全盲クラス(T11)のマラソンの世界記録は、2時間31分59秒。アトランタパラリンピックで金メダルを獲得した柳川の記録よりも、約20分も早くなっている。

同クラスの日本選手でも2時間32分台を記録したこともあり、世界的にレースは高速化の一途をたどり、安田のように一人でマラソンを伴走するのはもはや不可能な時代になってきている。

レース後に抱き合う柳川と安田

現在、安田はコーチとして自身の経験やノウハウを体系化し、選手やガイドを指導するなど選手強化に携わっている。

そして、2016年リオパラリンピックでは女子の道下美里(T12)が2名のガイドランナーとともに走って銀メダルを獲得。着実に成果に結びつけている。

東京2020パラリンピックのマラソン種目も、灼熱のレースとなることが予想される。その暑さを知る日本選手は有利かもしれないが、きっとまた『強い』選手が勝つに違いない。そして、選手の『強さ』を引き出せるのは、一緒に走るガイドランナーなのだ。


本記事のもととなったマンガ『職人つくりびと』〜パラスポーツを支える人やモノ〜、#2ガイドランナー編は、『パラリンピックジャンプ』VOL.2(2018年11月発行)に収録されている

↓最新刊『パラリンピックジャンプ VOL.5』についてはこちらから(外部サイト) https://youngjump.jp/pj/

text by Asahara Mitsuaki/X-1

photo by X-1

※本記事は『パラリンピックジャンプ』編集部協力のもと掲載しています。

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