インストラクター界のオピニオンリーダー、三觜喜一(後編)

ParOn.(パーオン) / 2019年7月27日 9時0分

多くのプロをジュニアから育て上げた三觜

日本女子プロゴルフ協会の小林浩美会長と、インターネットテレビ中継の解説席で大激論。いまやゴルフ界でも有数の論客として知られる三觜喜一はいかにして生まれたのか。2回目は爆笑エピソードもあるその生い立ちに迫る。
(日本ゴルフジャーナリスト協会会長代行・小川朗)
三觜は1974(昭和49)年12月29日、神奈川県藤沢市に生まれた。3人兄妹の長男で、生家は昭和初期から80年以上、代々続く青果業を営んでいた。
10歳の頃の話だ。店の前に穴を掘り、弟とゴルフの真似事をして遊んでいた。シャッターを下ろす棒をクラブ代わりに、ビー玉を打つ遊びだ。
それを見ていたお客さんが「ちょっとウチにいらっしゃい」と声を掛けてきた。バイクの後ろに乗せられ、大豪邸に連れていかれた。
納屋に入っていったそのお客さんは「どうせ遊ぶならこれでやりなさい」と、ドライバーと錆びた8番アイアンと、ボールをくれた。
小学5年生の三觜少年は早速、近所の砂浜で朝練に没頭した。中学に上がると鵠沼海岸にある保養所の空き地で「プレー」するようになる。
中1の時、テレビショッピングでグローブ、スパイク、クラブが全部揃って1万9800円という商品を見た途端、いてもたってもいられなくなった。それまで家の手伝いをしてもらった小遣いとお年玉をつぎ込んで、ついに道具をゲットする。
クラスにただ一人、ゴルフをするN君と仲良くなった。グリーンまではプラスチックボール、オンしたら本物のゴルフボールでプレーするという「特別ルール」のゴルフに没頭していた。
この年、三觜はコースデビュー。塩原市(栃木)で市会議員をしているおじに連れられ、那須野ヶ原CCでラウンド。スコアは49、59。コースデビューでハーフ50を切っている。
しかしこの後、悲劇が起こる。ある日、自宅2階の部屋でアプローチの練習をしていたところ、ボールが水槽を直撃。水槽は割れ、大量の水が階下の店舗へと流れ込んだ。これには父親の多喜男さんが激怒。クラブをすべて折られてしまった。
それでも三觜はめげない。ゴルフといえば日大、といわれるほどの日大ゴルフ部全盛時。プロを志して日大藤沢高に進学する。しかしここにはゴルフ部がなかった。
そこで入学式当日、職員室に行ってゴルフ部設立を直訴。たまたま日吉にある日大高校のゴルフ部監督をしていた教諭が転任してきていたが「ゴルフ部に昇格するにはサークル活動の実績が3年以上」との規定を突き付けられ断念。「個人でJGA(日本ゴルフ協会)に加盟しなさい」とアドバイスを受けた。同時に湘南シーサイドを紹介され、日曜日にキャディをすることで練習させてもらうようになった。
だが父親は「ゴルフなんかやっている場合じゃないだろ。店を手伝え」が口癖。コースでもキャディ教育はしてくれるものの、ゴルフのレッスンを受けることはできなかった。
誰にも教えてもらえず、上達を望むのは難しかった。初めて100が切れたのは高校3年時。ゴルフを始めて7年後のことだった。
高校の卒業が目前に迫り、長男である三觜に、父は東京の大学への進学を勧めた。だが三觜はゴルフをやりたくて仕方がない。結局家を飛び出し、東京ゴルフ専門学校(東京都杉並区)への進学を希望。父親も最後には「やりたいことをやれ」と折れてくれ、学費を出してくれることになった。
生田に家賃3万5000円のアパートを借り、原付バイクで杉並まで通う。平日は稲田堤の寿司屋、週末は川崎国際CCでアルバイトをして生活費を稼いでいた。
1994(平成6)年。時はバブル真っ盛り。20歳で専門学校を卒業した三觜は「就職先がないため、練習場とゴルフ場に片っ端から電話」。伊勢丹のゴルフスクールでインストラクターとして勤務する。ここは新宿伊勢丹の屋上で2000人、池袋駅前で600人の生徒を抱え、約30人のインストラクターがこれに対応していた。
だがゴルフがうまくなるためには研修生になるのが一番と気づき、1年で退社。伊勢丹のヘッドプロの紹介で群馬のプレスCC(現レーサムゴルフ&リゾート)に入る。「3年間はここで頑張ろう」と、腰を据え、研修生生活に専念した。
祖母のいとこが「ビッグスギ」こと杉本英世プロなのだが、「その時は教わる気もなく、どれだけすごい人なのかも知らず」三觜はまったくこのコネを使っていない。
プレスCCには山岡明美プロ(故人)夫妻がよく練習に来ていた。ゴルファーとしてやっていく上で、多くのことを山岡から学んだ。そのうちに調子が良ければパープレーで回れるようになる。
だが3年のリミットが来た時、結局ツアープロは断念せざるを得なかった。ちょうど先輩から、神奈川中央交通のインドアスクール(小田原)に誘われ就職する。
しかしやってみるとサラリーマン生活に向いていないと悟り、1年で独立。26歳にして真鶴ゴルフ練習場と小田原クラウンゴルフで、ジュニアを対象にしたスクールを始めた。一時は40~50人の生徒がいた。だが月謝は5000円とあって、交通費や経費などを除けば月20万円程度の収入にとどまった。周りからは「大人を教えていれば儲かるのに、子供を教えてどうするんだ。馬鹿じゃないのか」と言われたが「指導を受けられなかったために100を切るまで7年もかかった」という自分の経験を、ジュニアたちにはさせたくないという思いが常にあった。
「うまくならなかったのはホントに辛かった。100を切るのに7年もかかっているわけですから。でも父親も学校の先生になれず諦めていて、自分も子供を教えるのが好きだった。どんどん伸びていくのが見られるのは、それだけで楽しかった。だから、一緒に育ってきた感じですね」
当然のことながら、その間にはトライ&エラーも繰り返された。
「指導方法を誤って、私が潰してしまったゴルファーもいます。今なら確実にプロにしてあげられていた。そういう選手には、未だに会うと『すまなかったな』と謝っています」
小2から高3まで指導した西山美希、幼稚園から小6まで門下生だった林菜乃子らは、三觜のもとを巣立ちプロ入りしている。この他にも辻梨恵らプロが続々生まれていくことになる。リオ五輪では体操の代表候補だった高木優奈は小6時に三觜門下となり、今年20歳にしてツアーデビューを果たしている。
その間、自分の商品価値を高めるために自己投資にも金を使った。コミュニケーション能力や経営者としてのスキルを磨くセミナーにも多く参加している。
「TAIKANZ GOLF」(新宿)と「世田谷オットチッタ」(世田谷)を主要拠点にして小田原、浜松でもゴルフスクールを展開している三觜。日本が遅れを取っているクラブ力学の分野など、最新技術の導入にも積極的だ。三觜なら、スコア至上主義に偏ることなく、人間的にも尊敬を集める名プレーヤーも育てられるはずだ。(了)

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