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老いた親との関係が一番難しい...「介護をめぐる諍い」を防ぐための心得

PHPオンライン衆知 / 2024年1月17日 11時50分

親の介護で気を付けるべきこと

多くの人を悩ませる「親の介護」。長生きして欲しいと思っているのに、親と意見が食い違ってフラストレーションがたまり口論に発展するなど、諍(いさか)いが生じるケースも珍しくありません。親と円満な関係を維持し、残された時間を共に生きていくために必要なこととは? 哲学者の岸見一郎さんが語ります。

※本稿は、岸見一郎著『老いる勇気』(PHP文庫)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

介護で心労を抱えてしまう理由

ひたひたと押し寄せる老いの波が、人を、そして日々の暮らしをどのように変えていくのか──。身をもってそれを教えてくれるのが親です。「百聞は一見に如かず」といいますが、親を介護していると、これが老いるということなのかと思い知ることになります。

自らの衰えもさることながら、親の老いを目の当たりにするのは切ないものです。足元がおぼつかなくなり、ジグソーパズルのピースが一つ、また一つと欠けていくように記憶が失われ、やがて日常生活に様々な困難が生じてきます。

そうなった時に、どのようにケアの態勢を整えていくかということも重要ですが、実は一番難しくて、意外に見落とされがちなのが、老いた親とどう向き合い、どのように接するかということです。

介護によって心労を抱えることになるのは、親には幸せな晩年を過ごしてほしいと願うからこそです。そのために、できる限りのことはしたいと思いつつも、終わりの見えない介護の日々に心が塞ぎ、精神的に追い詰められていく人が少なくないのが現実です。

そうなると、幸せであってほしいという気持ちとは裏腹に、親に声を荒らげてしまったり、口論になって後味の悪い思いをしたりすることになってしまいます。

アドラーは、「すべての悩みは対人関係の悩みである」と語っています。介護の悩みも対人関係の悩みです。しかも、老いた親との関係は、対人関係の中で一番難しい。なぜなら、どんな関係よりも近く、かつ関係の歴史が長いからです。

いかなる対人関係も、どちらかが歩み寄らなければ変わりません。とはいえ、他者を変えることはできない。相手を変えられないとなれば、自分が変わるほかありません。介護が必要となった親との関係も、まずは「自分が変わる」と決心する。これが第一歩です。

何度も同じ話をしたり、わがままをいったり、時にはこちらを困らせることもあるでしょう。

しかし、老いた親に残された時間、自分が親といられる時間はそう長くはありません。腹を立てている暇はないのです。必要なのは、そういうことにいちいち腹を立てない覚悟であり、現実を受け入れる勇気です。

 

「大人」であるための3つの要件

巷にはアンチエイジング情報が溢れています。健康寿命を延ばすには、毎日歩いたほうがいい。食事はバランスよく、高齢者こそ肉を食べたほうがいい。手を使うことをすると、認知症の予防になり進行を遅らせる効果があるらしい──等々。

健康によいといわれれば、親に勧めたくなります。しかし、それをするかどうかは、親が決めることです。

「なぜ、やらないのか」「あなたのためを思っていっているのに」と押し付けるのは、相手を変えようとする言動、態度です。押し付けられたと感じた親は、子どもの提案に従えば負けたことになります。負けないために、親が子どもの提案を受け入れないようなことがあれば、親のためになりません。

相手を変えるのではなく、自分が変わる。どう変わればよいのかというと、ひと言でいうなら「大人になる」ということです。

大人であるためには3つの要件があります。

1つは、自分の価値を自分で認められること。自分がしたことや自分の存在価値を、他者からの評価に関係なく、自分で認め、価値があると考える。誰かにほめられたり、認められたりすることを求めない、ということです。

親から「ありがとう」と感謝され、周囲から「大変でしょう」「親思いですね」とほめられることを期待する気持ちがあると、介護は辛いものになります。親が感謝するとは限らず、周囲の人も努力を認めてくれるとは限らないからです。

大人になりきれていないと、評価されたり、認められるために無理をします。ところが、期待したほどの評価が得られなかったり、認められないと、「私はこんなに頑張っているのに!」と、攻撃の矛先を親や周囲に向けて、関係を悪化させることになります。

自分が決めなければならないことを、自分で決められる。これも、大人であるための大切な要件の1つです。

小学生の頃、校区の外れに住んでいた私は、学校から戻った後に、また遊びに出かけるということはありませんでした。ところが、ある日、友だちから「遊びにこないか」と電話がかかってきました。親の許可を得ないといけないと思って、近くにいた母に、行ってもいいかと訊くと、「そんなことは自分で決めていい」といわれ、驚いたことを覚えています。

確かに、友人宅に遊びに行くかどうかは私の課題であって、母の課題ではありません。自分で決めなければならないことです。自分の課題は自分の責任において選び、決断して、遂行しなければならないということを、その時私は学びました。

老いた親に対して、自分は何ができるか、何をするかということも、自分で考え、自分で決めるべき事柄です。「普通は」「みんなも」しているから、もしくは「こうすべき」「したほうがいい」と誰かにいわれたからするというのでは困ります。

自分の課題を自分で決められるということは、相手が自分の課題を自分で決めることを尊重できるということでもあります。介護において、これは重要なことです。老いをどう生きるかを決めるのは、親本人です。親の課題に土足で踏み込み、子どもである自分の理想や希望を強いるようなことがあってはいけません。

老いても矍鑠(かくしゃく)として、日々を楽しく、充実して生きてほしい。孫たちにも優しく、寛大で、手本となるような振る舞いをしてほしい──など、親に理想の姿を求めてしまうのは、大人であるための3つ目の要件、「自己中心性からの脱却」ができていないことにも起因します。

私たちは皆、共同体の一部ではありますが、共同体の中心にいるわけではありません。"私"は他の人の期待や要求を満たすために生きているわけではありませんが、他の人も"私"の期待や要求を満たすために生きているわけではないのです。

親子も1つの共同体であり、親も子も、その一部です。どちらかが中心にいるわけではないのだと知り、そう自覚して互いに接することは、介護の肝要です。互いの理想や期待をぶつけ合えば、どちらも無用なフラストレーションを抱えることになり、介護は早晩立ち行かなくなります。

 

 

ありのままの親を受け入れる

他者の評価・承認を求めず、自分と親との課題をきちんと分けて考え、親は自分の理想や要求を満たすために生きているわけではないと知る──。この3つの要件を満たした"大人"になることは、ありのままの親を受け入れることができるようになる、ということでもあります。

誰でも、相手が自分に理想の姿を求め、そこからの引き算でしか現実の自分を見てくれないのは嬉しくないものです。子どもが自分をどのように見ているか、受け入れているかは親に伝わります。

ありのままの親を受け入れることが、親を尊敬するということです。尊敬していれば、何かを無理強いしたり、ぞんざいな言葉を投げたりはしないはずです。

何かができなくなった親を「かわいそう」だと思うのも、逆に、何かができた親をほめるのも、ありのままの親を尊敬していないということです。

ほめるという行為は、"上から目線"で自分の理想を親に押し付ける言動であり、「かわいそう」だと思うのも、実は上から目線の感傷だということに気づく必要があります。

様々なことができなくなる親の姿を見るのは辛いことです。我が身の行く末を見ているようで、思わず目を逸らしたくなることもあるかもしれません。

しかし、失われたものや「できなくなった」ことではなく、今「できる」ことに注目し、できるのに「やろうとしない」としたら、それは親の意志、選択だと受け止めたいのです。

目の前の親を、こうあってほしいという「理想の親」や、元気だった「かつての親」と比べない──それだけでも、接し方は大きく変わるはずです。

 

一緒にいられるだけでありがたい

今の親子関係に欠けているのは、「ありがとう」という言葉だと思います。親から「ありがとう」といわれることはないかもしれません。しかし、自分も親に、「ありがとう」と伝えていないのではないでしょうか。

ちょっとしたことであっても「ありがとう」といわれれば、親は自分が家族の役に立っていると感じ、自分に価値があると思えます。親と一緒にいられるというだけで、十分にありがたいことです。今、こうして一緒にいられることに対して、「ありがとう」と思えれば、大抵のことは乗り越えられます。

ありがたいとは、「有ることが難しい」ことをいいます。つまり、滅多にない、稀なることだ、ということです。介護の日々は、おそらく覚悟していた以上に厳しいものでしょう。

しかし、感謝の言葉を声に出して不断に伝え、いつかはくる別れのその時まで、毎日を大切に、仲良く生きていこうと決心すれば、心に波を立てることなく、よい関係を紡いでいくことができます。

人間は、ともすると物事の"闇"のほうにばかり目を向けがちです。親を介護するために自分は仕事や自分の時間を犠牲にしているとか、どんなに頑張っても親はどんどん衰えていく──と、ネガティブな側面に心を奪われてしまうと、眼前にある物事のよい面に気づけなくなります。

私も、脳梗塞で倒れた母を看病するために大学院を3カ月間離れ、後にはアルツハイマー型認知症を患った父の介護で、思うように仕事ができない時期がありました。そのことに焦り、戸惑い、鬱々とした気持ちになったこともあります。

しかし、もしも私が大学院生ではなく、就職して会社勤めをしていたとしたら、当時25歳の私は入社したての新人ですから、3カ月も仕事を休んで母の最期に寄り添うことはできなかったでしょう。

父が介護を要するようになった時も、たまたま私自身が病後の療養のために自宅で仕事をしていた時期と重なっていました。だからこそ、毎日父の家に通い、長い時間、傍にいることができたのです。巡り合わせで人生のこの時期に親の看病、介護ができるのは幸せなことだと思いました。

このようにポジティブな側面に光を当て、これが私の人生なのだと覚悟が据わってからは、ずいぶんと気が楽になりました。

 

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