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「きみ、あんまり働きなや」松下幸之助が、赤字を出した責任者に放った言葉の真意

PHPオンライン衆知 / 2024年5月29日 11時50分

松下幸之助の逸話

一代で世界的企業を築き上げ、"経営の神様"と呼ばれた松下幸之助だが、成功の陰には数々の感動的なエピソードがあった――。「きみ、あんまり働きなや」「一人も解雇したらあかん」...。幸之助が従業員にかけた言葉の真意とは? 5つのエピソードを紹介する。

※本稿は、PHP理念経営研究センター編著「松下幸之助 感動のエピソード集」(PHP研究所)より、内容を一部抜粋・編集したものです。

 

きみだったら必ずできる

昭和2(1927)年、松下電器が初めてアイロンの開発を手がけたときのことである。幸之助は若い技術者を呼んで言った。

「今、アイロンというものを二、三の会社がつくっているが、使ってみると非常に便利である。しかし、残念ながら価格が高く、せっかく便利なものなのに多くの人に使ってもらうことができない。そこで、わしは合理的な設計と量産によって、できるだけ安いアイロンをつくり、その恩恵にだれでもが浴せるようにしたい。

今、師範学校を出て、小学校に勤めた先生は給料が安く、たいてい2階借りをして暮らしているが、そのような人でも買える価格にするためには、今4円から5円しているのを3円くらいに下げなければならない。それを松下でぜひやり遂げたいのだがどうだろうか」

技術者は、幸之助の熱意に感激した。すかさず幸之助は命じた。

「きみひとつ、このアイロンの開発を、ぜひ担当してくれたまえ」

ところがその技術者は、金属加工の経験はあるけれども、アイロンなど電熱関係についてはまったく何も知らない素人である。当然辞退した。

「これは私一人ではとても無理です」

それに対する幸之助の言葉は、力強く誠意に満ちていた。

「いや、できるよ。きみだったら必ずできる」

そのひと言で青年の心は動いた。なんとかできるような気がしてきた。

「こういう意義のある仕事です。及ばずながら精いっぱいやらせていただきます」

幸之助が願ったとおりの低価格で、便利なナショナルスーパーアイロンができあがったのは、それからわずか3カ月後であった。

 

きみ、あんまり働きなや

昭和37(1962)年10月、松下電器は、台湾松下電器を現地資本と合弁で設立した。人員は100人あまり、主製品はラジオとステレオ。しかし、当初、経営は非常に厳しく、設立から約1年で資本金にほぼ等しい赤字が生じていた。

出向責任者がその間の事情を報告に幸之助のところへやってきた。20分ほど、じっと報告に聞き入っていた幸之助は、「きみ、せっかく台湾から帰ってきたんやから、ひとつみやげをやろう」と初めて口を開いた。

「きみ、あんまり働きなや」

芳しくない報告をしたあとだけに、叱咤激励されるものとばかり思っていた責任者は驚いた。

「台湾松下が今、月々損を重ねているのは、責任者であるきみからすれば、たまらんことやろう。けれどもこの損は、工場が十分に稼動していない、販売網もまだできていないために出てきている損や。

そんなときにきみな、あわてて物つくって、不良を出したときの損は大きいで。販売網もろくにできていないのに変な売り方をして、貸し倒れになったとしたら、えらい損するで。だから、十分工場が稼動して、販売網も整うまでは決してあせったらいかん。あんまり働いたらいかんな」

 

6割は気に入らんけれども

「きみのとこ今、部下何人おるのや」

幸之助が、ある課長に言った。

「主任が3人おります」

「その3人は、きみの言うことをよく聞いてくれるか」

「はあ、よく聞いてくれます」

「それは結構や。ところできみな、ぼくはいろいろ決裁しておるやろ。それを見て、世間ではぼくのことをよくワンマンだとか言っているらしいが、しかしな、ぼくが初めからこれでいいと思って決裁しているのはだいたい4割ぐらいやで。あとの6割は気に入らんところもあるけどオーケーしているんや」

「はあ」

「しかしな、きみ、そのオーケーしたことが実現するまでに、少しずつ自分の考えているほうに近づけていくんや。もちろん、命令して自分の思うように事を進めるのも一つの行き方ではあるけど、一応決裁はするが、そのあと徐々に自分のほうに近づいてこさせるのも、責任者としてのまた一つの行き方だと思うんや」

*こうした姿勢を幸之助は「従いつつ導く」と表現していた。部下のやる気を極力損なわない配慮をしていたのである。

 

従業員のことを思うと......

大正14(1925)年、幸之助は近隣の人たちの推薦を受けて、大阪市の連合区会議員の選挙に立候補、当選したが、その選挙運動を通じて17歳年長のある区会議員の知遇を得た。

ある日、幸之助は街角で偶然この人に出会い、久しぶりだということで、レストランに誘わた。"お茶でも"という幸之助の心づもりに反してこの人は、豪華なランチを2人前注文した。ところが運ばれてきた食事に幸之助は容易に手をつけようとしない。体の調子でも悪いのかといぶかる相手に、幸之助は申しわけなさそうに答えた。

「従業員の人たちが今、汗水たらして一所懸命に働いてくれていることがふと頭に浮かびましてね。それを思うと、私だけこんなご馳走を、申しわけなくてよう食べんのです」

感銘したこの人は、以後いっそう幸之助に対する信頼を深め、のちにはついに、自分の商売をやめて松下電器に入り、幸之助に協力することになった。

 

一人も解雇したらあかん

昭和4(1929)年5月、松下電器は待望の第二次本店・工場の新築がなり、第二の発展期を迎えた。従業員約300名、まだ町工場の域を出ないとはいうものの、発展に発展を続ける姿は業界でも目立つ存在であった。

そんなおりもおり、世界恐慌が起こった。国内では濱口内閣が緊縮政策をとり、ほどなく金解禁を断行、経済界は萎縮し、不況が深刻さを増していた。そこへ世界恐慌である。産業界は二重の打撃を受け、株価は暴落、企業の倒産が全国に広がった。労働争議が起こり、農村では娘の身売りが相次ぎ、社会問題になっていた。

電機業界でも多数のメーカーが倒産したが、松下も販売が半分以下に急減、たちまち在庫が増え、12月には倉庫がいっぱいで製品の置き場もなくなるという創業以来の深刻な事態に直面した。

そのころ幸之助は病床にあった。幸之助に代わって采配を振るっていた2人の幹部が、対応策を持って幸之助を訪ねた。

「オヤジさん、販売が半分に減り、倉庫は在庫の山です。この危機を乗り切るためには従業員を半減するしかありません」

報告を聞き終えた幸之助は、しばらく沈思してから口を開いた。

「なあ、わしはこう思うんや。松下がきょう終わるんであれば、きみらの言うてくれるとおり従業員を解雇してもええ。けど、わしは将来、松下電器をさらに大きくしようと思うとる。だから、一人といえども解雇したらあかん。会社の都合で人を採用したり、解雇したりでは、働く者も不安を覚えるやろ。大をなそうとする松下としては、それは耐えられんことや。みんなの力で立て直すんや」

そして具体的な方法を示した。

「ええか、生産を直ちに半減して、工場は半日勤務にする。しかし従業員の給料は全額を支給する。その代わり、店員は全員、休日を返上し、在庫品の販売に全力をあげてもらおう」

この決断は従業員を奮い立たせた。

「さすがはオヤジさんだ。みんなで力を合わせてがんばろう」

社内にたれこめていた暗雲は瞬時に吹き飛んでいた。それから2カ月、全員のしゃにむにの努力が実を結び、在庫は一掃されて倉庫は空になった。社員の結束力が、いっそう強まったのは言うまでもない。

 

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