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「生きていても仕方ない」と嘆く人は、幸せになる能力に欠けているのか?

PHPオンライン衆知 / 2024年6月6日 11時50分

苦しみから抜け出すには

自分は「生きるに値しない人間」と思い込み、人生を諦めてしまっている人がいます。生きがいを見つけられず、不幸に苦しむ人は幸せになる能力をもっていないのでしょうか? 苦しみから抜け出し、人生を変えるために必要なことを加藤諦三さんが語ります。

※本稿は加藤諦三著『無理をして生きてきた人』(PHP新書)より一部抜粋・編集したものです。

 

「死にたい」の真意

今の子供の無気力は、吐き出せない憎しみが原因ではないか。

あるお母さんは「なにもしたくない。死にたい」と口癖のようにいう。心の底では夫を嫌いなのだが、本人は気がついていない。気づくのが怖い。だから意識の上では夫を憎めない。それは結構よい生活をしているから。夫への憎しみに気がつけば今のよい生活は失われる。

そこで彼女は、ガス抜きができない。そのお母さんが恩着せがましく子供に言う。

「あなたがいけないのよ、お母さん達はこれだけ、あなたのために努力しているのよ」

実は、こう恩に着せながら無意識の憎しみを子供に向かって吐き出している。「あなたのため」と言われれば、子供は親を恨むこともできない。恨みを晴らすこともできない。こうして自分に噓をついていると、家族が全員悩みを解決できない。

「死にたい」と言う人と、「死にたい」とは言わない人の違い。

「死にたい」と言う人は、解決の能力がない。だから止まってしまう。「死にたい」の真意は、「救ってくれ」ということである。

そこで「どうしたらいい?」と聞いている。「死にたい」のは、目的を見失っているから。自分はどうしたらいいか分からない。「これをしよう」という目的がないから、「死にたい」と言う。

「死にたい」とは言わないけれど、「せっかく命をもらったのだけど、疲れちゃった」と言う人がいる。その真意は「死にたい」である。

 

とにかくその相手と戦うこと

あなたに「私は生きるに値しない人間」という自己イメージを持たせたのは誰であろうか?

小さい頃のことをよく思いだしてみる。その人のことを今よく考えてみることである。するとその人が「ろくでもない人間」ということに驚くのではないか。

自分は、なぜあのようなずるい人をあそこまで恐れたのか。なぜあんな卑怯な人間に、あそこまで苦しめられたのか? あそこまで弱い人をあそこまで畏敬したことが恐ろしくならないだろうか。人間は、ここまで現実とは関係のない思考をするのかと驚かないだろうか。

とにかくずるくて、弱くて、卑怯な人によって、まさに「私は生きるに値しない人間」と思い込まされたのである。とにかくその人と戦うことである。

戦う意欲はどこから出てくるか?

得体の知れない相手と戦うのではない。戦う相手を明確にすることである。「自分を変える、自分と戦う」ということは、自分の心の中に恐怖のシステムを埋め込んだ人との戦いである。そのように戦いを意義づけられれば、戦う気力が出てくる。

自分と戦うということは、過去に自分の心にいろいろとマイナスの感情を埋め込んだ人と戦うということである。人は、お互いに蓄積されている感情的記憶が違う。

 

何度でも言い続ける

「私は幸せになる」と何度でも言い続ける。棺桶に入っても言い続ける。自分は幸せになれる人間だと信じられるまで言い続ける。幸せになれる人間だとノートに書き続ける。そしてそれを読み続ける。

外側の環境を変えるよりも自己イメージを変えるほうが、幸福になるためには有効である。そうして肯定的な自己イメージを作り上げれば、必ず幸せになれる。

今、不幸なあなたは幸せになる能力がないのではない。能力はある。しかし、その能力を破壊し続けているのはあなたの否定的な自己イメージなのである。恨みがましいパーソナリティである。あなたの心の中にある、いろいろな種類のマイナスの感情である。

本来の自分の力に気がつけば、ビクビクする必要はどこにもない。自分には力があるのに力がないと思い込み、事態に対して恐怖心を持つ。そうして恐怖心から行動するから、トラブルにうまく対処できない。

うまく対処できない原因は心の底の恐怖心である。しかし、その心の底の恐怖心はなんの根拠もない。なんの根拠もなく思い込んだ恐怖心に、あなたの人生は支配されている。

例えば今、あなたが対人恐怖症だったとする。そうしたら「今、私が怖がっている者の中で、実際には怖い者など一人もいない」とまず自分にいう。「自己主張をしても、恐ろしいことなどなにも起きない」と自分に言う。

捨てられるのが怖いという人は、「捨てられることはない。もし捨てられたら捨てられたほうがよい。捨てられたことは一時的に苦しいが、必ずもっといい人に出会える」と自分に言い聞かせる。

そして、それらのことを紙に大きく書いておく。毎朝、毎晩その紙を見る。その人の恐怖心が「怖くないものを怖く」する。「迎合する」とその人を怖くする。自分がその人を怖い人にしている。

 

この運命を生きる

自分は親から愛されなかった、自分は神経症の親から嫌われた、自分は親から「死んでくれればいいのに」と願われた、そういう過酷な不幸を受け入れた時に、心の成長がスタートする。

それは幸せへの鍵を手に入れた時である。人間としてもっとも困難な矛盾を乗り越える、それ以外に神経症を治癒する方法はない。

この矛盾を抱えている限り、心の土台がない。社会的にどんなに頑張っても、いわゆる「弱い人」になってしまう。

どんなに社会的に成功しても、それだけでは「心の砦」ができない。共同体感情を持っていないから、人生の諸問題を解決することはできない。

自分の母親は冷酷な女性だったという不幸を受け入れた時に、辛らつに血を流しながら、人を理解することができるようになる。そこで、共同体感情が芽生えてくる。不幸を受け入れることと、共同体感情が芽生えてくることは、不可分なことである。

世の中には、母なるものを持った母親に育てられた人がいる。残念だけれども、自分はそちら側ではない。そのことをいつまで悔いていてもなにも始まらない。なにも解決しない。眠れるようにはならない。心身のつらさは消えない。

「この運命を生きる」という目的を持って、気持ちを落ち着かせる。

性格の強い人は不幸を受け入れている。次に自分の弱点を受け入れている。

例えば「私は両親不和の家に生まれた」という自分の生い立ちを受け入れる。「私は生まれてからずっと「心の帰る家がなかった」という自分の生い立ちを受け入れる。「不幸を受け入れる」ことができるということが、自分を受け入れるということでもある。理想の人生を断念し、現実の自分を受け入れるということである。これが強い性格の人である。

自分の原点を見つめて、そこから出発する。その時に初めてありのままの自分を受け入れることができる。

 

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