豊臣秀吉が愛飲した、お寺の酒とは? 寺院で確立された「日本酒づくりの原型」
PHPオンライン衆知 / 2024年11月8日 12時0分
日本酒はかつて、寺院で盛んに製造されていました。特に室町時代に盛り上がり、当時の寺院は最先端の技術で、極上の酒造りを行っていたといいます。豊臣秀吉も魅了したという「寺の酒」とはどんなものだったのでしょうか? 酒蔵コーディネーターの髙橋理人さんによる書籍『酒ビジネス』より解説します。
※本稿は、髙橋理人著『酒ビジネス』(クロスメディア・パブリッシング)を一部抜粋・編集したものです。
仏教とともに酒づくりが民間に広まった鎌倉時代
鎌倉時代の一大トピックと言えば、日本初の武家政権が誕生したこと、つまり、これまで貴族が行っていた政治を武士が行うようになったことでした。
これに伴い、宗教や酒づくりも民間人に広まっていきました。仏教はそれまで貴族のたしなみでしたが、民間人のための仏教が誕生しました。例えば、「南無阿弥陀仏」と唱える浄土宗・浄土真宗などが有名です。
同じく、酒づくりもこれまでは国や寺が主役でしたが、民間でも酒づくりが広まっていきました。その当時のトピックスをいくつかご紹介します。
古酒が大好きだった日蓮上人
「南妙法蓮華経」でおなじみの日蓮宗の日蓮上人。彼の信徒からもらった酒に対するお礼の手紙が残っています。
「人の血をしぼれるが如くなるふるさけを仏、法華経にまいらせ給える女人の成仏得道疑うべしや(人の血を絞ったような古酒を仏・法華経にお供えされた女性〈=酒をくれた信徒〉が成仏得道することは疑いようがない)」と綴っており、非常に喜んだ様子でした。
ここで注目すべきは「古酒」という記述です。この時代には古酒が飲まれていたことがわかり、その古酒が「人の血」のような色だったことまでリアルに伝わってきます。
日本初の禁酒令と酒税
民間に酒が広まっていく中で、風紀が乱れていきました。そこで鎌倉幕府は1252年に、日本初の禁酒令である「沽酒(こしゅ)の禁令」を発令します。ちなみに「沽酒」とは、酒の売買のことを意味しています。
これは、酒の売買を禁止するとともに、家1軒につき貯蔵用の甕(かめ)は1つに制限し、残りは壊されてしまいました。鎌倉市内だけでも、3万7000個もの甕が破壊されたという記録が残っています。しかし、鎌倉幕府は2度の元寇により、財政が逼迫。そこで、日本初の酒税を課すことにしました。これにより、「禁酒令」は有名無実なものとなっていきました。
日本酒づくりの原型が確立した室町時代
仏教の力は、奈良から室町時代にかけて徐々に高まっていきました。権力が国から寺に移っていくにつれ、酒づくりの舞台も国から寺に移動していき、寺での酒づくりがはじまりました。「寺での酒づくり」と聞くと不思議な気がしますが、実は寺は当時のバイオテクノロジーの最先端機関でした。その理由は5つ挙げられます。
①経済力:貴族から集まる潤沢な寄付があった
②労働力:体力を持て余している修行僧が大量にいた
③情報力:海外留学をしていた渡来僧が最先端の知識をもたらした
④環境:俗世に惑わされずに研究できた
⑤政治:本来、寺では酒は造れないが治外法権の特権を持っていた
以上の理由を踏まえると、寺での酒づくりは必然とも言えます。
寺院で造ったお酒は評判が良く、総称して「僧房酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれました。その中でも菩提山正暦寺(奈良県奈良市)の「菩提泉(ぼだいせん)」は知名度が高く人気のお酒でした。
日本初の民間の醸造技術書『御酒之日記(ごしゅのにっき)』には、段仕込み、火入れ、乳酸菌発酵など、現在の日本酒づくりの原型とも言える造り方が記されており、特に加熱殺菌はヨーロッパの細菌学の父と言われるパスツールの発見よりも300年近く前に日本で採用され、当時の酒造技術の高さが窺えます。ちなみに、現在のビールやワイン、牛乳にも採用されている低温殺菌法「パスチャライゼーション」は、パスツールの名前に由来します。
『御酒之日記』には「菩提泉」のレシピが書かれています。当時、原料の米は玄米と白米の2種類を使うのが一般的でしたが、正暦寺では全量白米で酒づくりを行いました。全部を白米で造るので「諸白(もろはく)」と言います。諸白の味への影響は大きく、画期的な発明だったそうです。
さらに、生米を使う独特の製法で力強く芳醇なお酒を醸しました。この製法を「菩提酛(ぼだいもと)」もしくは「水酛(みずもと)」と言います。
この製法は、歴史の流れで一時途絶えるものの、近年注目され、実際に取り入れる酒蔵が増えています。時代を先取りした斬新な製法は、室町時代に生まれていたというのが驚きです。
「寺の酒」を終わらせた織田信長、花見を始めた豊臣秀吉
平安時代以降、「美味しいお酒」の代名詞は「寺の酒」でした。取引される値段も高く、極上の酒とされてきました。しかし、この戦国時代に転機が訪れます。その引き金を引いたのが、織田信長です。当時の寺は財力もあり、僧兵という強大な武力を持っていました。つまり、武士と寺は権力争いをする敵対的な関係にあったのです。
織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちに代表されるように、寺の力を弱体化させ、財源であった酒づくりもできないようにしていきました。こうして栄華を極めた「寺の酒」の文化は、衰退の一途を辿ることになりました。
寺の力が失われる中で例外として生き残ったのが、大阪の天野山金剛寺の「天野酒(あまのさけ)」でした。非常に評判のいいお酒で、特に豊臣秀吉から愛されていました。
豊臣秀吉の人生最後の豪遊と言われるのが、1300名の人を集めた「醍醐の花見」でした。この日のために各地から集めた700本もの桜を醍醐寺に植林し、建物や庭園を作りました。「桜の木の下で酒を飲み交わす」という現代の花見スタイルの元祖のようなイベントです。そして、この花見でオフィシャルの酒として振る舞われたのが「天野酒」でした。
江戸時代は武士への給料が「米」で支払われたように、お酒づくりだけでなく通貨としても米が使われていた時代です。その中で、米価の調節機能を維持するために、酒造業は不可欠として、城下町を中心に宿場町や門前町など、町方酒造業は完全に酒造を禁止されませんでした。
米は生ものなので、豊作になれば価格が下がり、凶作になれば価格が高騰するので、物価にも影響します。そのため、江戸幕府は米の価格をいかにコントロールするか、その需給調整が課題となっていました。
大量の米を消費する酒造業は、幕府が重要視する産業となりました。米が余れば酒づくりは奨励されますが、凶作や飢饉では米が不足し、価格が高騰すれば米の供給を増やすために、酒造制限を実施しなければなりませんでした。
江戸幕府は「酒株制度」によって酒づくりを免許制にすることで、酒の製造量をコントロールしました。さらに、当時の酒は1年に5回、つまり、1年を通してほぼつくり続けていたのですが、「寒造り令」によって、秋以前の製造を禁止しました。
寒い方が品質面では酒づくりに有利なので、冬に集中的に大量生産を行うようになりました。さらに、麹を製造する部門、米を蒸す部門などと分業をして、組織的に酒づくりを行う杜氏制度も成立しました。これまで手工業だったお酒づくりの工業化であり、まさに酒の産業革命と言えます。
さらに、安定した酒づくりのために腐敗の防止を目的として、加熱殺菌の「火入れ」、アルコール添加による「柱焼酎」などの技法もこの頃に一般化しました。この「柱焼酎」は、私が愛してやまない現代の本醸造にもつながる技術です。このように江戸時代は、現代に通じる酒づくりの技術が確立した頃でもありました。
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